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更新日:2021年6月28日

南房総エリア

 いすみ市

 大野城(おおのじょう)

 大野城は夷隅川中流域の丘陵先端部に築かれ、北は夷隅川、東は大野川、西と南は谷津に囲まれた天然の要害です。
隣接する光福寺が上総狩野氏ゆかりの寺院であることからも、大野城は15世紀には狩野氏の居城だったとされています。
 狩野氏は伊豆国狩野荘(伊豆市)を発祥とする一族です。伊豆国守護であり、南北朝時代以降、上総国を支配下に置いていた上杉氏との関係から狩野氏も上総国に入ったと考えられています。鎌倉公方が房総半島に送り込んだ武田氏、里見氏らに対抗するためと推察できます。
しかし、発掘調査によると、大野城は狩野氏がいた時代より後の16 世紀後半まで使用されていたことがわかっています。大野地域は小田喜城(現在の大多喜城)の正木氏と万喜城の土岐氏に挟まれていて、そのどちらかの勢力が大野城を支城としていたと思われます。
 戦国時代末期には、この地域は小田喜正木氏の勢力下にあったと思われ、小田喜城の支城として使われていたと考えられます。
 現在、八幡神社が鎮座する場所は、「要害」とよばれ、主郭とされる区画の鬼門に当たり、往時の居館の姿が偲ばれます。
 大野城は大規模な破城の跡が調査で検出されていて、天正18 年(1590 年)に徳川家康の関東入部に伴い、上総国に入ってきた本多忠勝が万喜城から大多喜城に移るときに破城されたものと考えられています。

 

 大野城は戦国期には、正木氏の小田喜城と土岐氏の万喜城の境目の城として重要な役目を担っていたと思われます。その大野城の御城印には、夷隅川などの河川に囲まれ、要害となっている地形がわかる地図をデザインしました。
 そして、正木氏の家紋「三引き両」と土岐氏の家紋「水色桔梗」を配置しました。 
 さらに大野城の築かれた大野の地は狩野派の祖である狩野正信生誕地ともいわれています。真偽は定かでありませんが、狩野氏ゆかりの地であることから御城印は狩野派の山水画をイメージし、大野城が築かれた夷隅川沿いの美しい景色を描きました。

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 小浜城(こばまじょう)

 小浜城は太平洋に向かって突き出した八幡岬に築かれました。現在、小浜八幡神社が鎮座している平場から海に向かって曲輪が連なり、その先端が主郭だったと考えられます。
 城山は海を臨む断崖絶壁の要害になっていて、小さいながらも重要な海上の拠点として機能していたと考えられます。麓には湊もあり、西南の湾は軍船の船繋ぎ場と思われ、水軍拠点としての小浜城の姿が浮かび上がってきます。
 小浜城の城下にかつての夷隅川の河口があったといい、水運の要である夷隅川を押さえ、万喜城、小田喜城(現在の大多喜城)と繋がるまさに水路の玄関口といえます。
 小浜城の詳細は不明ですが、万喜城の支城と思われ、土岐氏の家臣鑓田美濃守勝定が築いたとも伝わります。鑓田氏が合戦に赴いて城を留守にしている間に、城は正木氏に奪われ、またそれを鑓田氏が取り返したとの伝承も残ります。詳細は不明ながらも、この小浜城を取り合う勢力がいて、奪い合いをする価値のある城だったということがわかる逸話と
いえます。
 天正18年(1590 年)に徳川家康の関東入部に伴い、上総国に入った本多忠勝に小浜城も接収され、廃城になりました。

 

 万喜城の支城であったと思われる小浜城の御城印には、土岐氏の家紋「水色桔梗」を配置し、断崖絶壁の城山の遠景をモチーフにするとともに、湊に停留する舟を浮かべました。
 さらに、小浜城が面していた太平洋の荒波を描きました。いすみ市は、「波の伊八」の異名を取る彫師武志伊八郎信由ゆかりの地でもあり、その伊八が彫った波をイメージして御城印をデザインしました。

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 万喜城(まんぎじょう)

 万喜城は夷隅川中流域の丘陵を利用して築かれ、城山を取り巻くように蛇行して流れる夷隅川を天然の水堀としています。城郭を築くのに最適な丘陵地に占地し、千葉県内でも有数の規模を誇っています。城内には、堀や切岸、堀切、曲輪などの遺構が良好に残ります。
 万喜城は上総土岐氏の居城として有名ですが、土岐氏が入る以前に長南武田氏が居城としていたことが西麓の上行寺の過去帳からわかっています。
 南北朝以降、関東管領上杉氏の支配下にあった房総半島に、鎌倉公方が送り込んだのが武田氏や里見氏です。その武田氏の衰退とともに土岐氏が万喜城周辺に進出していったと思われます。土岐氏が上総国に入った経緯は、不明点が多くまだよくわかっていません。
 土岐氏は夷隅川沿いにたくさんの支城を築き水運を利用し、勢力を伸ばし、万喜城を拡張整備していったのでしょう。
 城下町も形成され、主郭東側の裾野から夷隅川までの間の平坦部が城下の中心にあたります。土岐氏当主の屋敷や家臣の屋敷などが置かれたと考えられていて、「内宿」という地名や船着き場の跡と思われる場所が今も残ります。
 当初は里見方だった土岐氏ですが、第二次国府台合戦(1564年)で里見氏が小田原北条氏に負けると、北条氏に属します。そのため、たびたび里見氏や正木氏に攻められました。万喜城の西方、数百mの距離にある権現城は、天正3年(1575年)に小田喜城(現在の大多喜城)の正木憲時が築いた万喜城を攻めるための陣城です。この陣城を含め、万喜城は房総の歴史を語る上でとても貴重な城といえます。
 天正18 年(1590年)に北条氏が滅びると土岐氏も同じ運命をたどりました。そして、徳川家康の関東入部に伴い、本多忠勝が万喜城に入城。その後、忠勝はまもなく大多喜城に移ったため、万喜城は廃城となりました。

 

 御城印には万喜城に入ったと考えられる武田氏の家紋「四つ菱」と、土岐氏の家紋「水色桔梗」をデザインしました。そして、土岐氏の当主が代々好んで絵を描いたとされる「土岐の鷹」をモチーフにしました。
 万喜城には、「マス台」と呼ばれる大手を守る高さ5mの櫓台があるなど、とても堅固な造りをしていました。御城印には堅固で大規模な万喜城のジオラマをデザインしました。このジオラマは、いすみ市郷土資料館に展示されています。
 なお、万喜城は万木城跡公園として整備されていて、「マス台」には櫓を模した展望台が建っており、太平洋を望むことができます。

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  大多喜町

 大多喜城(おおたきじょう)

 大多喜城は、徳川四天王の一人、本多忠勝により、1590年に近世城郭として整備されたお城です。縄張りの特徴として、大田代層と言われる地元の地質の特性を活かし、一切の石垣を用いず城郭の構築が行われています。
 本多忠勝は生涯57の戦を闘いながら、傷一つ負わなかったという無敵の武将ですが、その築城術に関しても、地域の特性を活かすという合理性を有した武将であったことがわかります。現在、本丸には、三層四階の模擬天守が千葉県立中央博物館大多喜城分館として建てられていますが、本丸台地下の千葉県立大多喜高校内には往時の二の丸御殿薬医門が千葉県内唯一の現存城郭建造物として移築されており、さらに近くには、日本一の大井戸が遺構として現存します。大多喜城本丸は千葉県指定史跡となっており、お城としては、2017年に「続日本100名城」に選定されています。

 上部に本多家の家紋「立葵」、下部には1681年より明治維新まで大多喜城主であった大河内松平家の家紋を配しています。中央には、本多忠勝が戦国の勇者をたたえながら、来世は戦のない世界を念じたと言われている「地蔵菩薩」「阿弥陀如来」「観音菩薩」をそれぞれ右から梵字として配しています。
本多忠勝の所持した日本三大名槍の一つである「蜻蛉切の大槍」の槍先には、この三文字が彫られていました。

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  • 大多喜町観光本陣:夷隅郡大多喜町大多喜270-1(いすみ鉄道大多喜駅前)
  • 大多喜城分館(千葉県立中央博物館):夷隅郡大多喜町大多喜481

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 勝浦市

 興津城(おきつじょう)

 興津城は別名奥津城ともいい、興津湊から北側の丘陵上に築かれました。標高120mを超え、湊から眺めるとかなり屹立した山城に見えますが、そのまま北側の平地に続く立地となっています。城山の南側には湊に続く道が通り、北側の尾根上には主要街道が通り、興津城はその抑えの役目を担っていたものと考えられます。
 鎌倉時代からこの地にゆかりのあった佐久間氏が城を築いたのが始まりとされ、詳細は不明ですが、
その後、戦国期になると上総武田氏や正木氏が城として取り立てたとされます。現在は戦国時代の遺
構が良好に残ります。
 天正8年(1580年)に正木憲時が里見義頼に対して反乱を起こすと、興津城は里見軍に攻められました。このとき里見軍に攻められた興津城は周辺を攻撃され、わずか城郭部分のみがかろうじて落とさ
れずに残る危機に追い込まれました。妙本寺に残る文書「里見義頼書状」によると、「興津巣城計(お
きつすじろばかり)」と書かれていて、その緊迫した状況を生々しく伝えてくれます。
 その後の詳細は不明ですが小田喜正木氏が滅ぶと、勝浦正木氏の城として機能したと思われます。

 デザインの説明

 丘陵上の南側が主郭とされ、方形の区画となっています。土塁や空堀、櫓台も良好に残っていて晴れた日には興津湊のある大海原を望むことができる興津城の御城印は、縄張図と地形図をモチーフにしました。
 主家である里見氏に反旗を翻したことにより、正木氏は家中で分裂。これにより、房総半島の戦国史に多大な影響を及ぼしました。御城印には正木氏の家紋「三つ引両」をデザインしました。

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  • ONE勝浦企業組合(勝浦市商工会館内)/〒299-5225 勝浦市墨名657-2
    TEL 0470-73-4554
    営業時間 10時00分~16時00分
    定休日 水・土・日・祝日
    営業時間内でも不在の場合がありますので事前にお問い合わせください。
  • 御門/〒299-5245 勝浦市興津2656
    TEL 0470-76-0008
    営業時間 8時00分~19時00分
    定休日 毎週日曜日
  • 一般社団法人勝浦市観光協会(外部サイトへリンク):勝浦市墨名815-56(KAPPYビジターセンター内)
    TEL 0470-73-2500
    営業時間 8時30分~17時15分
    定休日 年末年始
  • かつうら商店(外部サイトへリンク):勝浦市勝浦154(勝浦中央商店街)
    TEL 0470-73-2500
    営業時間 平日8時30分~13時30分/土日7時30分~13時30分 ※営業時間は変更になる場合もございますのでお電話でご確認下さい。
    定休日 毎週水曜日・年末年始

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 勝浦城(かつうらじょう)

 勝浦城は勝浦港東側丘陵地に築かれ、突端である八幡岬から遠見岬神社付近までが城域と考えられています。丘陵伝いに南北約1 . 5km、東西約0 . 6kmに及ぶ広大な城郭です。ただし、真ん中に位置する鳴海神社北側に「新地」という名が残ることから、最初から広い城域をとっていたわけではなく改修拡大していく中で城域が北側に広がっていったと推察されています。
 勝浦正木氏の本城である勝浦城は、正木氏以前に上総武田氏の城だったとも伝わりますが、詳細は不明です。正木氏に関しては、天文11年(1542年)12月に正木時忠が勝浦の年貢を定める文書を出しているので、この年のうちに勝浦城に入ったと考えられています。
 勝浦正木氏は里見氏の配下でしたが、永禄7 年(1564年)の国府台合戦で里見氏が小田原北条氏に負けたことにより、勝浦正木氏は北条氏と結び、勝浦城は反里見氏の城となりました。しかし、最終的には里見氏に帰属し、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原攻めを迎え、その後は里見氏とともに安房に移りました。

デザインの説明

 勝浦城主正木時忠は正木宗家である時茂の弟にあたり、そのことからも勝浦の重要性が分かります。さらに、正木氏が小田原北条方に属していた際、北条氏が勝浦城に船を送り後方支援していることからも勝浦城が里見氏と北条氏の間の重要拠点だったことが想像できます。そのように大事な湊であったであろう勝浦の地形を御城印にデザインしました。また、正木氏の家紋「三つ引両」も描きました。
 勝浦城には「お万の方」の像が立っています。お万の方は正木頼忠の娘で、徳川家康の側室になり紀州徳川家初代頼宣、水戸徳川家初代頼房を生みました。お万の方が勝浦城で生まれたと伝わることから御城印にはお万の方の像をモチーフにしました。

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 鋸南町

 勝山城(かつやまじょう)

 千葉県安房郡鋸南町にある勝山城は対北条氏のために築かれた里見水軍の基地です。標高80メートルの八幡山に築かれ、眼下に勝山湊を臨むことができます。険しい独立丘陵を利用し、岩盤を削り残して土塁や石塁を設け、尾根上に堀切を入れ、城塞化しています。南西山麓の「水浦」には船溜まりがあったと思われており、その水浦に向かって削平した曲輪がいくつか見られることからも、船着き場や、そこにいた水夫の存在を想像することができます。

 勝山城は戦国期の典型的な海城で、内房を支配していた内房正木氏の城でした。勝山城を「新地」とする書状も残っていることから、三浦半島に蟠踞する北条水軍との戦いの拠点として新たに城の間に位置する勝山が勝山城に築かれたと考えられます。

 江戸時代に入り、里見氏が改易になると、内藤氏が入府。北麓に陣屋が築かれ、町は発展していきました。

デザインの説明

 勝山城は岡本城と金谷城との連携を考えた上での好立地に加え、湊の前面に防波堤にも目隠しになる浮島を持つ理想的な水軍基地です。この勝山湊こそが勝山城の存在意義と考えられるため、御城印デザインは勝山湊の遠景をモチーフにしました。勝山城城山の山容と勝山湊、そして小舟を描き、さらに里見氏の家紋「二つ引両」と天正期に城主だった正木氏の家紋「三つ引両」をそれぞれ配置しました。

ご購入はこちら
  • 鋸南町観光協会 保田駅前観光案内所:千葉県安房郡鋸南町保田249/TEL0470-55-1683/FAX0470-55-0661(火曜休)

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 妙本寺砦(みょうほんじとりで)

 千葉県安房郡鋸南町にある中谷山妙本寺は、房総半島の中でも屈指の日蓮宗の古刹です。14世紀前半に創建され、その後、永生11年(1514)に里見義通がここを陣屋として以来、有事の際には里見氏の要害として使われていたため、「妙本寺要害」「妙本寺砦」などと呼ばれています。対北条氏のための里見水軍拠点として新たに勝山城が築かれるまでは、岡本城と金谷城の間にある妙本寺が、この二つの城の連携を担っていたと考えられます。実際、東京湾を挟んで三浦半島と対峙するこの寺は、戦国期には何度も戦火にさらされました。そして妙本寺は里見氏の庇護を受けることになります。

 海に面した丘陵地に位置し、本堂を囲むようにぐるりと尾根がめぐっており、自然地形を使って要害化した痕跡が見られます。太鼓打場と呼ばれる平場や堀切などが残り、戦国期の名残をとどめています。妙本寺には禁制などのたくさんの文書が残り、現地に残る痕跡や地形、立地以外にも、それらの記録が当時の歴史を今に伝えてくれます。

 海岸方面から妙本寺に向かうと、徐々に坂道になります。坂道を上がり山門の前に立つと、妙本寺を取り囲む尾根と、本堂の龍田課題がまるで砦の様に目の前にそびえ立ちます。妙本寺砦の御城印はそのようなイメージで、現在の妙本寺山門に柵を描きデザインしました。

 臨時の要害にも使われた里見氏ゆかりの寺なので、里見氏の家紋「二つ引両」を配置しました。さらに妙本寺境内にある里見氏の家紋と波をあしらったモチーフを使わせていただきました。ぜひ、現地で探してお楽しみください。

ご購入はこちら
  • 鋸南町観光協会 保田駅前観光案内所:千葉県安房郡鋸南町保田249/TEL0470-55-1683/FAX0470-55-0661(火曜休)

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 館山市

 稲村城(いなむらじょう)

 稲村城は、館山市稲地区にある標高64メートルほどの丘陵に占地している中世戦国期の城郭です。北を流れる滝川を自然の堀とし、東、西、南を廻る丘陵地に外郭の役目を担わせた東西約2キロメートル、南北約1.5キロメートルにわたる城域を誇るお城です。主郭部の丘陵は、安房の国府が置かれていた府中を見下ろす位置にあることから、前期里見氏による安房支配を確立した重要な拠点となりました。
また、丘陵下の滝川を利用することで、直接館山湾の水上交通とも結べるという大きな利便性も有したお城でした。
 稲村城の築城は15世紀後半と考えられており、里見義豊が天文の内訌により、里見義堯に滅ぼされるまで、約80年間前期里見氏の本城でした。
天文の内訌後、稲村城は使用されなくなったため、戦国前期の城の姿がそのまま良好に残された遺構であり、貴重な価値を有する城跡として主郭部が国の史跡に指定されています。

デザインの説明

 里見氏の家紋と稲村城跡の鳥瞰図に城郭用語を配したものをモチーフとして、デザイン化しました。
このお城は、地元の有志の方々による長年の広範囲な保存運動の成果により、遺跡破壊を免れ、国指定史跡になった経緯を持つ戦国前期の城跡であり、現在も良好に残る様々な戦国期の城郭遺構を前記鳥瞰図が見事に表しているものです。

  •  館山城館山市立博物館受付:館山市館山351-2 城山公園内

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 館山城(たてやまじょう)

 館山城は、戦国末期の里見義頼の時代には岡本城の支城としての役割を果たしていました。里見義康の代に豊臣秀吉より「惣無事令」違反を咎められ、里見家の上総領が没収されたことに伴い、安房国の新たな中心の城郭として積極的な拡張工事が行われたお城です。しかしながら、義康の後を継いだ忠義の時代の慶長19年(1614年)に、徳川幕府から突然国替えを言い渡されることとなりました。館山城自体
は城を受け取りにきた幕府軍により破却され、ほとんどの堀は埋め立てられてしまいました。後年、太平洋戦争中には海軍の陣地となったため、10メートルほど山頂が削り取られてしまい破壊が進みました。現在昔日の面影を伝えるものとして、千畳敷という曲輪や切岸・堀切などが城内に残っています。

デザインの説明

 里見家の家紋である二引き両紋と昭和57年(1982年)に城地に建設された模擬天守の絵柄をモチーフにしたものです。模擬天守は館山市立博物館(八犬伝博物館)として、里見八犬伝に関する展示を行っています。

  •  館山城館山市立博物館受付:館山市館山351-2 城山公園内

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 南房総市

 石堂城(いしどうじょう)

 石堂城は天台宗寺院である石堂寺の背後の山に築かれました。石堂寺は寺伝によれば、神亀3年(726年)創建といい、行基の開山と伝わります。その後、火災で焼失したため、大永2年(1522年)に丸氏の援助で現在の地に再建されたといいます。その際に、丸山平野から奥に入った谷の山嶺上という城郭要素を併せ持った地に、寺と一体を成すように石堂城が築かれたと思われます。
 石堂寺の本堂を取り囲む尾根上には、堀切や土橋などの城郭遺構が残り、平場や櫓台のような痕跡も見て取れます。丸氏の居城である丸城が指呼の距離にあることからも、丸氏やその主筋である里見氏の城として機能していたと考えられます。
 戦国末期には足利頼氏が石堂寺で養育されました。小弓公方足利義明の孫にあたる頼氏は、足利の命脈を繋ぎ、喜連川藩祖となった人物です。足利氏が没落した後、豊臣秀吉が名門足利氏の功績を偲び喜連川(栃木県さくら市)の地を与えたことから、「喜連川」を名乗りました。足利の血を引き継ぐ頼氏が入った寺であることからも、石堂寺、そして石堂城の重要性が浮かび上がります。

デザインの説明

 石堂寺の多宝塔(国指定重要文化財)は天文14年(1545年)に丸常綱を大且那として、丸一族を中心に建立されました。丸氏にとって、石堂寺は信仰の中心であり、その寺を取り込んだ石堂城を築いた際も丸氏が深く関わっていたと推察されます。御城印には丸氏の家紋をデザインし、戦国期に丸氏が属した里見氏の家紋もあわせてデザインしました。
 奈良時代からの古刹石堂寺を取り込み築かれた石堂城の険峻な山容をイメージして、御城印に描きました。

ご購入はこちら
  • 道の駅「とみうら枇杷倶楽部」:南房総市富浦町青木123-1
  • 道の駅「三芳村鄙の里」:南房総市川田82-2
  • 道の駅「ちくら潮風王国」:南房総市千倉町千田1051
  • 道の駅「富楽里とみやま」:南房総市南房総市二部1900
  • 道の駅「和田浦WA・O!」:南房総市和田町仁我浦243
  • 道の駅「ローズマリー公園」:南房総市白子1501

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 里見番所(さとみばんしょ)

里見番所

 里見番所は平久里川と長藤川の合流点北側にあたる標高約120m、比高約65mの丘陵に築かれました。別名「不寝見川(ねずみがわ)番所」とも呼ばれ、横堀、切岸、堀切などの城郭遺構が残っています。
 歴史的な詳細は不明ですが、南北に走る平久里街道を直下に臨む立地に位置することからも、街道を見張る監視所の役目を担っていたと考えられます。南方には滝田城をはじめとするいくつかの城跡があり、それらの城の変遷や関係などは不明ながらも、この地域が緊迫した状況に習かれていたことが推察できます。
 コンパクトな城郭ですが、主郭北東下には横堀が良好に残っています。急斜面を切岸状に削り、その直下に空堀を掘って土塁を巡らせていて、その造りから北側に対する防御の意識が見て取れます。里見氏のお家騒動「天文の内紅(1533年)」の際に、滝田城にいた里見義豊の勢力が一時的に築いた可能性も指摘されています。

デザインの説明

 御城印には里見氏の家紋「二つ引両」をデザインし、さらに里見番所の縄張図と復元鳥諏図をモチーフにしました。縄張図と復元鳥諏図は日本城郭史学会委員の大竹正芳氏によるもので、現地を訪れ、当時を想像して楽しむことができる図となっています。

ご購入はこちら
  • 道の駅「とみうら枇杷倶楽部」:南房総市富浦町青木123-1
  • 道の駅「三芳村鄙の里」:南房総市川田82-2
  • 道の駅「ちくら潮風王国」:南房総市千倉町千田1051
  • 道の駅「富楽里とみやま」:南房総市南房総市二部1900
  • 道の駅「和田浦WA・O!」:南房総市和田町仁我浦243
  • 道の駅「ローズマリー公園」:南房総市白子1501

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 白浜城(しらはまじょう)

 白浜は、房総半島の南端に位置し、中世・太平洋の海上交通を抑える要衝でした。
そのため、関東地方の戦国時代の幕開けとなる享徳の乱(1454年~1483年)において、鎌倉公方足利氏から当時関東管領の上杉氏派が統治していた安房地域を奪うために、送り込まれたのが里見氏といわれ、その初代の里見義実が、本拠にした場所が白浜城と考えられています。
城跡は太平洋を一望に見渡せる標高140メートルの山頂を中心に占地し、東西1キロメートル、南北400メートルにわたる広大な城域を有します。
 城跡は南房総市指定史跡となっており、物見台、堀切などのほか、尾根に小さな平場を作ることで曲輪を配した房総戦国時代初期の遺構が残る城郭です。
登山道が整備されており、山頂からの太平洋の眺望は秀逸です。
山麓から山頂までは、約40分で往復することができます。

デザインの説明

 里見氏の家紋と太平洋を眺望するために物見台に建っていたであろう望楼を考証を踏まえ、イメージ化するとともに、望楼前に作られていたであろう木柵と太平洋からの海風にはためく里見家の幟をデザインのモチーフといたしました。

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  • 道の駅「とみうら枇杷倶楽部」:南房総市富浦町青木123-1
  • 道の駅「三芳村鄙の里」:南房総市川田82-2
  • 道の駅「ちくら潮風王国」:南房総市千倉町千田1051
  • 道の駅「富楽里とみやま」:南房総市南房総市二部1900
  • 道の駅「和田浦WA・O!」:南房総市和田町仁我浦243
  • 道の駅「ローズマリー公園」:南房総市白子1501

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 滝田城(たきたじょう)

 滝田城は南房総市上滝田区・下滝田区根小屋西方の丘陵上に占地する山城です。
築城時期は定かではありませんが、天文の内訌(1533年)時、里見義豊派の一色氏の居城であり、里見義堯派に攻められ落城したという歴史を持ちます。この落城後は、しばらくの間、里見義堯が居城としていたのではないかともいわれています。
 城跡の最高所は標高140メートルであり、八幡台と呼ばれ、主郭部と考えられるとともに、これを囲む形で、曲輪と思われる数か所の平場が認められる構造となっています。
城跡は南房総市の指定史跡とされており、曲輪、櫓台跡、竪堀などの遺構が良好に残ります。
また山麓より遊歩道が整備され、所要約80分で城内を巡ることができます。

デザインの説明

 このお城は、「南総里見八犬伝」では、里見義実の居城とされ、八犬伝発祥の城とされています。
 この経緯により、城跡内の遊歩道には、物語に登場する伏姫と八房の像である「伏姫八房翔天の像」があり、その像のイメージをモチーフに里見氏の家紋と合わせ、デザイン化いたしました。 

  • 道の駅「とみうら枇杷倶楽部」:南房総市富浦町青木123-1
  • 道の駅「三芳村鄙の里」:南房総市川田82-2
  • 道の駅「ちくら潮風王国」:南房総市千倉町千田1051
  • 道の駅「富楽里とみやま」:南房総市南房総市二部1900
  • 道の駅「和田浦WA・O!」:南房総市和田町仁我浦243
  • 道の駅「ローズマリー公園」:南房総市白子1501

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 平松城(ひらまつじょう)

平松城

 平松城は山名川と平久里川に挟まれた丘陵上に築かれました。麓には「池之内」という地名が残り、山名川に向かって南方に口を開けた谷となっています。
 平松城は安房の豪族安西氏の居城として知られています。
 治承4年(ll80年)、源頼朝が打倒平家の兵を挙げるも石橋山合戦にて敗北。逃げた頼朝一行は海路にて安房に人りました。その安房入りの際、真っ先に頼朝の元を訪れ、再起を図るために尽力した安西景益が平松城を築いたとの伝承も残りますが、現在残る城の遺構は戦国期のものと思われます。現地には主郭と見られる平場や、腰曲輪、そして櫓台のような人工的に削平された遺構が残っています。安西氏は戦国期には里見氏や北条氏の家臣として取り立てられたとされています。
 堀や土塁などの明確な遺構は残っていませんが、安房国の古くからの豪族安西氏の拠点としてその名を残す貴重な史跡といえます。

デザインの説明

 平松城は、太平洋航路の交通の要である鏡ケ浦(現館山湾)に注ぐ河川沿いに築かれました。安西氏はこの海上交通の要衝を押える水軍の一団だったと考えられます。御城印は船で太平洋を行き来する安西氏をイメージし、表現しました。
 安西氏は対岸の三浦半島の豪族三浦一族とも関係が深かったとされていることから、三浦一族の家紋「三つ引両」をデザインしました。
 三浦一族は房総半島にも勢力を広げ、たくさんの領地を持っていました。和田義盛の子である朝夷(あさひな)義秀の生母は安西氏の娘であり、三浦氏の棟梁義澄の娘は安西景益に嫁いでいます。三浦氏の系図には三浦為継の子に安西四郎なる人物もみえ、安西氏の入婿となったと思われています。それらのことから、安西氏は三浦氏と同族もしくは、三浦氏の家人とも考えられています。

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  • 道の駅「とみうら枇杷倶楽部」:南房総市富浦町青木123-1
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 丸城(まるじょう)

 丸城は天台宗安楽寺背後の丘陵に築かれました。南北に延びる山塊一帯が城跡とされています。山頂からは周辺の平野部を見渡すことができ、北東方面に位置する古刹石堂寺へと続く街道を臨むことができます。
 築城年や築城主などの詳細は不明ながらも、平安時代からの豪族、丸氏の居城とされています。平安時代から室町時代にかけて丸氏の拠点がどこであったかは不明ですが、室町時代のどこかの段階で、安房東部の領主としてこの地に城を築いたものと思われます。少なくとも、15世紀にはこの丸城を居城として、一帯を本拠地としていたと考えられます。その後、丸氏は丸城を中心として、丸山川流域に一族が分布してい きました。
 戦国時代になると、丸氏は里見氏に属しますが、丸城がいつまで使われていたかは定かではありません。
 城山社のある山頂部が主郭だったと思われ、この主郭が物見台の役目を担い、街道や平野部を監視していたと考えられます。

デザインの説明

 丸城が築かれた一帯は、源頼義が前九年の役の功により、朝廷から恩賞として与えられた源氏ゆかりの地です。平治元年(1159年)に、源義朝が子の頼朝の昇進を願い、伊勢神宮にこの地を寄進したため、「丸御厨」という伊勢神宮の荘園が成立しました。これにより頼朝は蔵人に補任され、頼朝にとってもゆかりの深い場所なのです。
 この丸の地を拠点とした丸氏は、保元の乱(1156)では義朝軍として戦い、鎌倉政権成立後には「吾妻鏡」にもその名が見えるほどの一族です。
 治承4年(1180年)、石橋山の戦いに敗れ安房に逃れた頼朝が丸五郎信俊を案内役として丸御厨を巡検し、丸氏の居館に宿泊し、安楽寺を参詣したといいます。
 御城印には丸氏の家紋と、戦国期に丸氏が属したと思われる里見氏の家紋をデザインし、安楽寺の山門をモチーフにしました。この山門は享徳元年(1452年)に建てられていたといわれ、享徳の乱(1454年)直前にあたるこの時期の丸氏の居城を想像できる現在に残る貴重な遺構です。この時期の丸城城主は、丸常重であることも安楽寺に残る鋳造護摩釜よりわかっています。山門にあわせて丸城城山の山容を描き、街道を見張る櫓をデザインしました。

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 宮本城(みやもとじょう)

 宮本城は、南房総市富浦町大津の標高188メートルの山上を中心に占地する中世戦国期の山城であり、城跡は南房総市の指定史跡となっています。宮本城は稲村城の支城として築かれた城といわれていますが、天文の内訌(1533 年)の一方の主役であった里見義豊が幼少時育った城ともいわれています。
 宮本城は、地形に対して竪堀、土橋、堀切等を組み合わせ、大規模な山城としての要害化が図られています。
 また、石積み遺構が残ることが大きな特徴です。このお城は、北側の防御に力が注がれており、上総方面を意識した山城であったと思われます。
 遺構の状況から見ても、戦国時代末期まで使用されていたものと考えられているとともに、一時期は、里見家当主である里見義堯の居城であった可能性もあるといわれています。

デザインの説明

 宮本城はその城域、要害化の状況から見ても、安房の国、有数の山城といえます。
御城印においては、その山城全体の山容をモチーフとして、里見家の家紋と合わせデザイン化しました。

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旅して集めよう!千葉県の御城印!

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かずさ・臨海エリア

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ここに集めよう!千葉県の御城印帳

下総多古 御城印帳

  •  【販売場所】多古 道の駅あじさい館:多古町多古1069-1

館山城 御城印帳

  • 【販売場所】館山城館山市立博物館受付:館山市館山351-2 城山公園内

大多喜城 御城印帳

  • 【販売場所】大多喜町観光本陣:夷隅郡大多喜町大多喜270-1(いすみ鉄道大多喜駅前)
  • 【販売場所】大多喜城分館(千葉県立中央博物館):夷隅郡大多喜町大多喜481

猪鼻城 御城印帳

  •  【販売場所】いのはな亭:千葉市中央区亥鼻1-6(亥鼻公園内)

南房総市/南総里見八犬伝御城印帳

【販売場所】

 

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▽いくつかの千葉県「御城印」デザインを手掛ける「山城ガールむつみ」さん▽

  • 山城ガールむつみさんからのメッセージ

千葉県はたくさんの城跡があり、歴史の宝庫です。
千葉氏、里見氏に代表されるような、面白くドラマチックな歴史が満載です。
今ブームになっている「御城印」が地域の歴史や城を知り、大事に思うきっかけになれば嬉しいです。
これからもカッコよく素敵なデザインの御城印が続々と発行されますのでお楽しみに!