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更新日:2023年9月6日

南房総エリア

鴨川市

 

 

 いすみ市

 大野城(おおのじょう)

 大野城は夷隅川中流域の丘陵先端部に築かれ、北は夷隅川、東は大野川、西と南は谷津に囲まれた天然の要害です。
隣接する光福寺が上総狩野氏ゆかりの寺院であることからも、大野城は15世紀には狩野氏の居城だったとされています。
 狩野氏は伊豆国狩野荘(伊豆市)を発祥とする一族です。伊豆国守護であり、南北朝時代以降、上総国を支配下に置いていた上杉氏との関係から狩野氏も上総国に入ったと考えられています。鎌倉公方が房総半島に送り込んだ武田氏、里見氏らに対抗するためと推察できます。
しかし、発掘調査によると、大野城は狩野氏がいた時代より後の16 世紀後半まで使用されていたことがわかっています。大野地域は小田喜城(現在の大多喜城)の正木氏と万喜城の土岐氏に挟まれていて、そのどちらかの勢力が大野城を支城としていたと思われます。
 戦国時代末期には、この地域は小田喜正木氏の勢力下にあったと思われ、小田喜城の支城として使われていたと考えられます。
 現在、八幡神社が鎮座する場所は、「要害」とよばれ、主郭とされる区画の鬼門に当たり、往時の居館の姿が偲ばれます。
 大野城は大規模な破城の跡が調査で検出されていて、天正18 年(1590 年)に徳川家康の関東入部に伴い、上総国に入ってきた本多忠勝が万喜城から大多喜城に移るときに破城されたものと考えられています。

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 小浜城(こばまじょう)

 小浜城は太平洋に向かって突き出した八幡岬に築かれました。現在、小浜八幡神社が鎮座している平場から海に向かって曲輪が連なり、その先端が主郭だったと考えられます。
 城山は海を臨む断崖絶壁の要害になっていて、小さいながらも重要な海上の拠点として機能していたと考えられます。麓には湊もあり、西南の湾は軍船の船繋ぎ場と思われ、水軍拠点としての小浜城の姿が浮かび上がってきます。
 小浜城の城下にかつての夷隅川の河口があったといい、水運の要である夷隅川を押さえ、万喜城、小田喜城(現在の大多喜城)と繋がるまさに水路の玄関口といえます。
 小浜城の詳細は不明ですが、万喜城の支城と思われ、土岐氏の家臣鑓田美濃守勝定が築いたとも伝わります。鑓田氏が合戦に赴いて城を留守にしている間に、城は正木氏に奪われ、またそれを鑓田氏が取り返したとの伝承も残ります。詳細は不明ながらも、この小浜城を取り合う勢力がいて、奪い合いをする価値のある城だったということがわかる逸話と
いえます。
 天正18年(1590 年)に徳川家康の関東入部に伴い、上総国に入った本多忠勝に小浜城も接収され、廃城になりました。

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 上総 国府台城(かずさ こうのだいじょう)

上総 国府台城

 国府台城は夷隅川に面した台地に築かれた天然の要害です。現在、五柱神社が鎮座する平場が国府台城の主郭と考えられています。比高15mほどの台地の付け根を掘り切って独立させており、横堀も確認できます。かつては、「新郭」「城之内」という城郭地名も周辺に残っていたといいます。
 万喜城土岐氏家臣の三階氏が城主との伝承も残りますが、築城主、築城年代など詳細は不明です。しかし、国府台城は土岐氏の本城万喜城から南西約1.5kmに位置していることから、万喜城の南方を抑えるための支城と考えられます。
 夷隅川は国府台城の眼下でクランクしていて、その角部は流れが緩やかで船着き場にも利用できたと思われます。あわせて、国府台城の築かれた台地が夷隅川本流の渡河地を抑えられる唯一の場所であったとも考えられています。このように、国府台城は大多喜方面からの水運を抑えるとともに、さらには伊北と伊南を結ぶ街道に隣接し陸上交通を監視する役目も担っていたと考えられ、万喜土岐氏にとって重要な城郭だったことが推察できます。
 また、国府台城から西へ3キロの距離に小田喜正木氏の支城とされる大野城があり、大野城と国府台城がそれぞれの勢力の境目の城として機能していたと推測されます。
 天正初期以降は万喜土岐氏と小田喜正木氏との関係が悪化し、夷隅川を挟んで両者が向かい合ったと思われます。そのような状況下で、万喜土岐氏の最前線の城が国府台城だった可能性も指摘されていて、詳細は不明ながらもこの地域の歴史を物語る鍵になる城ともいえます。

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 万喜城(まんぎじょう)

 万喜城は夷隅川中流域の丘陵を利用して築かれ、城山を取り巻くように蛇行して流れる夷隅川を天然の水堀としています。城郭を築くのに最適な丘陵地に占地し、千葉県内でも有数の規模を誇っています。城内には、堀や切岸、堀切、曲輪などの遺構が良好に残ります。
 万喜城は上総土岐氏の居城として有名ですが、土岐氏が入る以前に長南武田氏が居城としていたことが西麓の上行寺の過去帳からわかっています。
 南北朝以降、関東管領上杉氏の支配下にあった房総半島に、鎌倉公方が送り込んだのが武田氏や里見氏です。その武田氏の衰退とともに土岐氏が万喜城周辺に進出していったと思われます。土岐氏が上総国に入った経緯は、不明点が多くまだよくわかっていません。
 土岐氏は夷隅川沿いにたくさんの支城を築き水運を利用し、勢力を伸ばし、万喜城を拡張整備していったのでしょう。
 城下町も形成され、主郭東側の裾野から夷隅川までの間の平坦部が城下の中心にあたります。土岐氏当主の屋敷や家臣の屋敷などが置かれたと考えられていて、「内宿」という地名や船着き場の跡と思われる場所が今も残ります。
 当初は里見方だった土岐氏ですが、第二次国府台合戦(1564年)で里見氏が小田原北条氏に負けると、北条氏に属します。そのため、たびたび里見氏や正木氏に攻められました。万喜城の西方、数百mの距離にある権現城は、天正3年(1575年)に小田喜城(現在の大多喜城)の正木憲時が築いた万喜城を攻めるための陣城です。この陣城を含め、万喜城は房総の歴史を語る上でとても貴重な城といえます。
 天正18 年(1590年)に北条氏が滅びると土岐氏も同じ運命をたどりました。そして、徳川家康の関東入部に伴い、本多忠勝が万喜城に入城。その後、忠勝はまもなく大多喜城に移ったため、万喜城は廃城となりました。

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 大多喜町

 大多喜城(おおたきじょう)新バージョン

新バージョン大多喜城

 大多喜城は太平洋に注ぎ込む夷隅川中流域の丘陵部に築かれました。天然の堀ともいうべく蛇行する夷隅川に囲まれていて、堅固な要害地形を成しています。現在の千葉県立中央博物館大多喜城分館が本丸、千葉県立大多喜高校が二の丸にあたります。
 大多喜城の築城等の詳細は不明ですが、江戸時代に書かれた『房総治乱記』などの軍記物によると、大永元年(1521 年)頃に上総武田氏が築城したとされています。上総武田氏は真里谷城、長南城を拠点に勢力を拡大し、大多喜城も上総武田氏の拠点のひとつとなりました。
 しかし、大多喜城における上総武田氏は天文13 年(1544 年)に正木氏と苅谷ケ原で戦いに及び、敗北したと伝わります。それにより、正木時茂が大多喜城に入城したとされ、小田喜(大多喜)正木氏とよばれる勢力へと発展していきました。以後、大多喜城は里見氏、正木氏の東上総統治における重要な拠点として、整備改修が繰り返されたと考えられます。
 天正18 年(1590 年)の小田原合戦後、里見氏が上総の所領を没収されると、徳川家康の関東移封に伴い、上総国には家康の配下の武将たちが入ってきました。そして、大多喜城には本多忠勝が10 万石で入城し、その際に地名を小田喜から大多喜に変更し、近世城郭として整備改修をしました。この改修整備では、石垣を一切使用することなく、大田代層といわれる独特の地質を活かした上で、近世城郭化を進めました。さらに、正木氏の中世城郭の構造を踏襲しながらも、城下町整備、街道整備を進めていきました。このような忠勝の計画的な町づくりによって、大多喜の町は生まれ変わり、大規模な城下町として発展しました。
 大多喜城は本多氏、阿部氏、青山氏、稲垣氏、大河内松平氏などの統治を経て、明治維新まで存続しました。
※戦国期の大多喜城は「小田喜城」と記されますが、ここでは戦国期においても「大多喜城」と記します。

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 大多喜城(おおたきじょう)

 大多喜城は、徳川四天王の一人、本多忠勝により、1590年に近世城郭として整備されたお城です。縄張りの特徴として、大田代層と言われる地元の地質の特性を活かし、一切の石垣を用いず城郭の構築が行われています。
 本多忠勝は生涯57の戦を闘いながら、傷一つ負わなかったという無敵の武将ですが、その築城術に関しても、地域の特性を活かすという合理性を有した武将であったことがわかります。現在、本丸には、三層四階の模擬天守が千葉県立中央博物館大多喜城分館として建てられていますが、本丸台地下の千葉県立大多喜高校内には往時の二の丸御殿薬医門が千葉県内唯一の現存城郭建造物として移築されており、さらに近くには、日本一の大井戸が遺構として現存します。大多喜城本丸は千葉県指定史跡となっており、お城としては、2017年に「続日本100名城」に選定されています。

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 勝浦市

 興津城(おきつじょう)

 興津城は別名奥津城ともいい、興津湊から北側の丘陵上に築かれました。標高120mを超え、湊から眺めるとかなり屹立した山城に見えますが、そのまま北側の平地に続く立地となっています。城山の南側には湊に続く道が通り、北側の尾根上には主要街道が通り、興津城はその抑えの役目を担っていたものと考えられます。
 鎌倉時代からこの地にゆかりのあった佐久間氏が城を築いたのが始まりとされ、詳細は不明ですが、
その後、戦国期になると上総武田氏や正木氏が城として取り立てたとされます。現在は戦国時代の遺
構が良好に残ります。
 天正8年(1580年)に正木憲時が里見義頼に対して反乱を起こすと、興津城は里見軍に攻められました。このとき里見軍に攻められた興津城は周辺を攻撃され、わずか城郭部分のみがかろうじて落とさ
れずに残る危機に追い込まれました。妙本寺に残る文書「里見義頼書状」によると、「興津巣城計(お
きつすじろばかり)」と書かれていて、その緊迫した状況を生々しく伝えてくれます。
 その後の詳細は不明ですが小田喜正木氏が滅ぶと、勝浦正木氏の城として機能したと思われます。

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 勝浦城(かつうらじょう)

 勝浦城は勝浦港東側丘陵地に築かれ、突端である八幡岬から遠見岬神社付近までが城域と考えられています。丘陵伝いに南北約1 . 5km、東西約0 . 6kmに及ぶ広大な城郭です。ただし、真ん中に位置する鳴海神社北側に「新地」という名が残ることから、最初から広い城域をとっていたわけではなく改修拡大していく中で城域が北側に広がっていったと推察されています。
 勝浦正木氏の本城である勝浦城は、正木氏以前に上総武田氏の城だったとも伝わりますが、詳細は不明です。正木氏に関しては、天文11年(1542年)12月に正木時忠が勝浦の年貢を定める文書を出しているので、この年のうちに勝浦城に入ったと考えられています。
 勝浦正木氏は里見氏の配下でしたが、永禄7 年(1564年)の国府台合戦で里見氏が小田原北条氏に負けたことにより、勝浦正木氏は北条氏と結び、勝浦城は反里見氏の城となりました。しかし、最終的には里見氏に帰属し、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原攻めを迎え、その後は里見氏とともに安房に移りました。

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  • 遠見岬神社 /〒299-5233 勝浦市浜勝浦1番地 
    TEL 0470-73-0034
    営業時間 8時00分~16時00分
    休務日あり(不定休の為お問い合わせください。)
  • 一般社団法人勝浦市観光協会(外部サイトへリンク):勝浦市墨名815-56(KAPPYビジターセンター内)
    TEL 0470-73-2500
    営業時間 8時30分~17時15分
    定休日 年末年始
  • かつうら商店(外部サイトへリンク):勝浦市勝浦154(勝浦中央商店街)
    TEL 0470-73-2500
    営業時間 平日8時30分~13時30分/土日7時30分~13時30分 ※営業時間は変更になる場合もございますのでお電話でご確認下さい。
    定休日 毎週水曜日・年末年始

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 鴨川市

 金山城(かなやまじょう)

金山城御城印

 金山城は鴨川から久留里、君津、大多喜、木更津の各方面に抜ける街道筋の丘陵に築かれました。標高約140mの城山を取り巻くように金山川が蛇行して流れており、水上交通と陸上交通の要衝地にあたります。現在、城山の北から東南にかけては金山ダムがあり、後世の大規模改変を受けています。
 南麓には「宿」の地名が残り、周辺に根古屋集落が形成されていたとも考えられています。
 金山城の築城等の詳細は不明ですが、長狭地方と上総国中央部を結ぶ街道を押さえる役目を担っていたと考えられます。城内には堀や土塁が残り、石積みを伴う桝形虎口が確認できます。
 金山城は戦国時代末期には、正木憲時と里見義頼の抗争の舞台となりました。小田喜城(大多喜町)城主だった正木憲時は、里見義堯、義弘の同盟者として小田原北条氏と懸命に戦いました。義弘の死後、遺領の相続をめぐり義弘の嫡男梅王丸と義頼の間で抗争が勃発。機先を制した義頼によって梅王丸とそれを支持する勢力は制圧されました。その際、義頼に対して正木憲時が反旗を翻したのが、天正8 年(1580年)に起きた「正木憲時の乱」と呼ばれる争乱です。
 義頼は先制攻撃に出て、瞬く間に数城を攻め落とし、太平洋岸の地域を制圧しました。憲時は小田喜城と興津城(勝浦市)を拠点に、義頼方となった吉尾城(勝浦市)を攻撃するなど抵抗しました。しかし、憲時は徐々に追いこまれ、天正9 年9 月、小田喜城でその生涯を終えました。この争乱の際に、金山城は憲時方の城だったことが『椙山文書』にて確認されています。

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 鋸南町

 勝山城(かつやまじょう)

 千葉県安房郡鋸南町にある勝山城は対北条氏のために築かれた里見水軍の基地です。標高80メートルの八幡山に築かれ、眼下に勝山湊を臨むことができます。険しい独立丘陵を利用し、岩盤を削り残して土塁や石塁を設け、尾根上に堀切を入れ、城塞化しています。南西山麓の「水浦」には船溜まりがあったと思われており、その水浦に向かって削平した曲輪がいくつか見られることからも、船着き場や、そこにいた水夫の存在を想像することができます。

 勝山城は戦国期の典型的な海城で、内房を支配していた内房正木氏の城でした。勝山城を「新地」とする書状も残っていることから、三浦半島に蟠踞する北条水軍との戦いの拠点として新たに城の間に位置する勝山が勝山城に築かれたと考えられます。

 江戸時代に入り、里見氏が改易になると、内藤氏が入府。北麓に陣屋が築かれ、町は発展していきました。

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  • 鋸南町観光協会 保田駅前観光案内所:千葉県安房郡鋸南町保田249/TEL0470-55-1683/FAX0470-55-0661(火曜休)

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 妙本寺砦(みょうほんじとりで)

 千葉県安房郡鋸南町にある中谷山妙本寺は、房総半島の中でも屈指の日蓮宗の古刹です。14世紀前半に創建され、その後、永生11年(1514)に里見義通がここを陣屋として以来、有事の際には里見氏の要害として使われていたため、「妙本寺要害」「妙本寺砦」などと呼ばれています。対北条氏のための里見水軍拠点として新たに勝山城が築かれるまでは、岡本城と金谷城の間にある妙本寺が、この二つの城の連携を担っていたと考えられます。実際、東京湾を挟んで三浦半島と対峙するこの寺は、戦国期には何度も戦火にさらされました。そして妙本寺は里見氏の庇護を受けることになります。

 海に面した丘陵地に位置し、本堂を囲むようにぐるりと尾根がめぐっており、自然地形を使って要害化した痕跡が見られます。太鼓打場と呼ばれる平場や堀切などが残り、戦国期の名残をとどめています。妙本寺には禁制などのたくさんの文書が残り、現地に残る痕跡や地形、立地以外にも、それらの記録が当時の歴史を今に伝えてくれます。

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  • 鋸南町観光協会 保田駅前観光案内所:千葉県安房郡鋸南町保田249/TEL0470-55-1683/FAX0470-55-0661(火曜休)

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 館山市

 稲村城(いなむらじょう)

 稲村城は、館山市稲地区にある標高64メートルほどの丘陵に占地している中世戦国期の城郭です。北を流れる滝川を自然の堀とし、東、西、南を廻る丘陵地に外郭の役目を担わせた東西約2キロメートル、南北約1.5キロメートルにわたる城域を誇るお城です。主郭部の丘陵は、安房の国府が置かれていた府中を見下ろす位置にあることから、前期里見氏による安房支配を確立した重要な拠点となりました。
また、丘陵下の滝川を利用することで、直接館山湾の水上交通とも結べるという大きな利便性も有したお城でした。
 稲村城の築城は15世紀後半と考えられており、里見義豊が天文の内訌により、里見義堯に滅ぼされるまで、約80年間前期里見氏の本城でした。
天文の内訌後、稲村城は使用されなくなったため、戦国前期の城の姿がそのまま良好に残された遺構であり、貴重な価値を有する城跡として主郭部が国の史跡に指定されています。

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 館山城(たてやまじょう)

 館山城は、戦国末期の里見義頼の時代には岡本城の支城としての役割を果たしていました。里見義康の代に豊臣秀吉より「惣無事令」違反を咎められ、里見家の上総領が没収されたことに伴い、安房国の新たな中心の城郭として積極的な拡張工事が行われたお城です。しかしながら、義康の後を継いだ忠義の時代の慶長19年(1614年)に、徳川幕府から突然国替えを言い渡されることとなりました。館山城自体
は城を受け取りにきた幕府軍により破却され、ほとんどの堀は埋め立てられてしまいました。後年、太平洋戦争中には海軍の陣地となったため、10メートルほど山頂が削り取られてしまい破壊が進みました。現在昔日の面影を伝えるものとして、千畳敷という曲輪や切岸・堀切などが城内に残っています。

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  南房総市

 石堂城(いしどうじょう)

 石堂城は天台宗寺院である石堂寺の背後の山に築かれました。石堂寺は寺伝によれば、神亀3年(726年)創建といい、行基の開山と伝わります。その後、火災で焼失したため、大永2年(1522年)に丸氏の援助で現在の地に再建されたといいます。その際に、丸山平野から奥に入った谷の山嶺上という城郭要素を併せ持った地に、寺と一体を成すように石堂城が築かれたと思われます。
 石堂寺の本堂を取り囲む尾根上には、堀切や土橋などの城郭遺構が残り、平場や櫓台のような痕跡も見て取れます。丸氏の居城である丸城が指呼の距離にあることからも、丸氏やその主筋である里見氏の城として機能していたと考えられます。
 戦国末期には足利頼氏が石堂寺で養育されました。小弓公方足利義明の孫にあたる頼氏は、足利の命脈を繋ぎ、喜連川藩祖となった人物です。足利氏が没落した後、豊臣秀吉が名門足利氏の功績を偲び喜連川(栃木県さくら市)の地を与えたことから、「喜連川」を名乗りました。足利の血を引き継ぐ頼氏が入った寺であることからも、石堂寺、そして石堂城の重要性が浮かび上がります。

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 里見番所(さとみばんしょ)

里見番所

 里見番所は平久里川と長藤川の合流点北側にあたる標高約120m、比高約65mの丘陵に築かれました。別名「不寝見川(ねずみがわ)番所」とも呼ばれ、横堀、切岸、堀切などの城郭遺構が残っています。
 歴史的な詳細は不明ですが、南北に走る平久里街道を直下に臨む立地に位置することからも、街道を見張る監視所の役目を担っていたと考えられます。南方には滝田城をはじめとするいくつかの城跡があり、それらの城の変遷や関係などは不明ながらも、この地域が緊迫した状況に習かれていたことが推察できます。
 コンパクトな城郭ですが、主郭北東下には横堀が良好に残っています。急斜面を切岸状に削り、その直下に空堀を掘って土塁を巡らせていて、その造りから北側に対する防御の意識が見て取れます。里見氏のお家騒動「天文の内紅(1533年)」の際に、滝田城にいた里見義豊の勢力が一時的に築いた可能性も指摘されています。

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 白浜城(しらはまじょう)

 白浜は、房総半島の南端に位置し、中世・太平洋の海上交通を抑える要衝でした。
そのため、関東地方の戦国時代の幕開けとなる享徳の乱(1454年~1483年)において、鎌倉公方足利氏から当時関東管領の上杉氏派が統治していた安房地域を奪うために、送り込まれたのが里見氏といわれ、その初代の里見義実が、本拠にした場所が白浜城と考えられています。
城跡は太平洋を一望に見渡せる標高140メートルの山頂を中心に占地し、東西1キロメートル、南北400メートルにわたる広大な城域を有します。
 城跡は南房総市指定史跡となっており、物見台、堀切などのほか、尾根に小さな平場を作ることで曲輪を配した房総戦国時代初期の遺構が残る城郭です。
登山道が整備されており、山頂からの太平洋の眺望は秀逸です。
山麓から山頂までは、約40分で往復することができます。

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 滝田城(たきたじょう)

 滝田城は南房総市上滝田区・下滝田区根小屋西方の丘陵上に占地する山城です。
築城時期は定かではありませんが、天文の内訌(1533年)時、里見義豊派の一色氏の居城であり、里見義堯派に攻められ落城したという歴史を持ちます。この落城後は、しばらくの間、里見義堯が居城としていたのではないかともいわれています。
 城跡の最高所は標高140メートルであり、八幡台と呼ばれ、主郭部と考えられるとともに、これを囲む形で、曲輪と思われる数か所の平場が認められる構造となっています。
城跡は南房総市の指定史跡とされており、曲輪、櫓台跡、竪堀などの遺構が良好に残ります。
また山麓より遊歩道が整備され、所要約80分で城内を巡ることができます。

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 とうしろ台城

とうしろ台城の御城印

 とうしろ台城跡は南房総市和田町小川の中央に位置する台地で、地形を生かした山城です。千葉氏一族と言われる境井弾正、将監兄弟の居城と伝えられています。

 とうしろ台城跡には、同市和田町黒岩側からの登山道の麓に「城井」と思われる遺構があり、今も湧水があり利用されています。城跡を中心として駒場・根方・堀の内宿・向根・馬場などの地名が残り、武士が拠点にしていた名残が窺えます。ある程度長い期間この地に土着していたと思われる豪族の境井氏の城ですが、大永・享禄(1521~32年)頃に里見氏に抗して反乱をおこし、里見氏の命をうけた正木氏に滅ぼされたと伝えられています。

 同市和田町小川には、千葉氏一族の境井氏が小川や長狭を領有していたと伝わることから、千葉氏の氏神である妙見様が、天御中主神社として勧請創建されたとの伝承があります。安房正木氏が、真田氏と共に大井氏・境井氏の乱を平定、真田氏はその後正木氏の配下となりました。正木氏は三原郷や長狭郡を里見氏から恩賞として賜り、三原城や長狭郡の山の城を足がかりに上総へ進出して隆盛を誇りました。

 1590年(天正18年)に勝浦城主正木頼忠が里見氏と共に安房一国へ退拠させられると三原郷へ戻り、入道して環斎と名乗り、鴨川市成川に隠居するまでの間に、妙見様、天御中主神社を再興したとも伝えられています。境井氏が拠った地であるとうしろの居館や城跡を三原城と呼んだという説や、とうしろ台地の奥に
位置する「先塚」あるいは「大塚」に出城や本城があったという説もあります。付近には天御中主神社の別当寺の役割を兼ねたとされる妙達寺があります。妙達寺は正木時忠の娘の菩提を弔うために正木頼忠により1612年建立されました。とうしろ台城跡は現在竹藪となっていますが、令和5年度後期から里山として整備されていく計画です。

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 平松城(ひらまつじょう)

平松城

 平松城は山名川と平久里川に挟まれた丘陵上に築かれました。麓には「池之内」という地名が残り、山名川に向かって南方に口を開けた谷となっています。
 平松城は安房の豪族安西氏の居城として知られています。
 治承4年(ll80年)、源頼朝が打倒平家の兵を挙げるも石橋山合戦にて敗北。逃げた頼朝一行は海路にて安房に人りました。その安房入りの際、真っ先に頼朝の元を訪れ、再起を図るために尽力した安西景益が平松城を築いたとの伝承も残りますが、現在残る城の遺構は戦国期のものと思われます。現地には主郭と見られる平場や、腰曲輪、そして櫓台のような人工的に削平された遺構が残っています。安西氏は戦国期には里見氏や北条氏の家臣として取り立てられたとされています。
 堀や土塁などの明確な遺構は残っていませんが、安房国の古くからの豪族安西氏の拠点としてその名を残す貴重な史跡といえます。

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 丸城(まるじょう)

 丸城は天台宗安楽寺背後の丘陵に築かれました。南北に延びる山塊一帯が城跡とされています。山頂からは周辺の平野部を見渡すことができ、北東方面に位置する古刹石堂寺へと続く街道を臨むことができます。
 築城年や築城主などの詳細は不明ながらも、平安時代からの豪族、丸氏の居城とされています。平安時代から室町時代にかけて丸氏の拠点がどこであったかは不明ですが、室町時代のどこかの段階で、安房東部の領主としてこの地に城を築いたものと思われます。少なくとも、15世紀にはこの丸城を居城として、一帯を本拠地としていたと考えられます。その後、丸氏は丸城を中心として、丸山川流域に一族が分布してい きました。
 戦国時代になると、丸氏は里見氏に属しますが、丸城がいつまで使われていたかは定かではありません。
 城山社のある山頂部が主郭だったと思われ、この主郭が物見台の役目を担い、街道や平野部を監視していたと考えられます。

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 三原城

三原城の御城印

 三原城跡は南房総市和田町中三原の宿に位置し、名刹日蓮宗威武山正文寺の北方の台地にあります。

 正文寺は相模の国の名族三浦氏の流れをくむ、真田氏の頭領真田源吾により、平安時代末に創建されたと伝えられ、真田氏の菩提寺として禅宗の寺でした。貞応年間(1222~24年)には、同市和田町中三原の唐ケ作に諏訪神社を建てたとも伝えられています。

 大永・享禄(1521~32年)頃に里見氏に抗した、和田町小川のとうしろ台城に拠った境井氏の乱を、里見氏の命を受けた正木氏と真田氏が平定しました。真田氏はその後正木氏の配下となりました。三原城はその頃から、慶長10年(1605 年)までのおよそ70~80年間正木氏の居城となり、正木時綱、時忠、時通、頼忠と当地は家督承継されました。(諸説あります)

 勝浦城主だった正木頼忠が天正2年(1574年)に父時忠の菩提寺とするため、禅宗の正文寺を日蓮宗に改宗、威武山正文寺と称しました。開基となった頼忠の娘は徳川家康の側室「お万の方」で、紀州徳川家初代の頼宣、水戸徳川家初代の頼房の生母として知られていることから、正文寺には「お万の方」の寄進の遺品やゆかりの史跡(南房総市指定)が数多くあります。

 境内南方のお塚には、正木頼忠の子孫で紀州徳川家家老の三浦氏が、戦国時代の三浦一族で先祖に当たる三浦同寸義同の供養塔を建立しています。
正木氏が領有した時代には、三原城・三原城山城・とうしろ台城をあわせて、三原城として活用したとの伝承もあります。

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 三原城山城

三原城山城の御城印

 三原城山城跡は南房総市和田町中三原の神田山にあり、名刹正文寺の南側の台地が城山と呼ばれ、城のあったところと伝承されています。今は山林化して台風被害による倒木もあるため登頂は難しくなっていますが、城跡は県道・市道に囲まれて独立し、周辺の山や三原城跡の山頂から望むことができます。

 当地の豪族で真田氏頭領の真田源吾が安元・治承(1175~81年)の頃築城したと伝えられています。真田氏は貞応年間(1222~24年)に同市和田町中三原の唐ケ作に諏訪神社を創建したと伝えられています。 又、三原城山城には五穀豊穣のため八大竜王が祀られています。(今は台風被害により石宮も被害を受け
ている模様です)大永・享禄(1521~32年)の頃、とうしろ台城の境井氏の乱を里見氏の命を受け、正木氏と真田氏が平定、その後真田氏は正木氏の配下となりました。この功により正木氏は正木郷、三原郷、長狭郡を拝領し、やがて三原城と鴨川市の山の城から北上、東上総へ進攻して小田喜城(大多喜・本家時茂)・勝浦城(別家時忠)を拠点に隆盛をみましたが、里見氏が上総召し上げで安房に退去すると、勝浦城の正木頼忠(時忠・時通より家督承継)もふる里の三原に戻り、要害性の高い三原城山城を再興したとも言われています。又、三原城山城・三原城・とうしろ台城を見張り・詰城・控城として、正木氏がこの三城全体を三原城として活用との伝承もあります。

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 宮本城(みやもとじょう)

 宮本城は、南房総市富浦町大津の標高188メートルの山上を中心に占地する中世戦国期の山城であり、城跡は南房総市の指定史跡となっています。宮本城は稲村城の支城として築かれた城といわれていますが、天文の内訌(1533 年)の一方の主役であった里見義豊が幼少時育った城ともいわれています。
 宮本城は、地形に対して竪堀、土橋、堀切等を組み合わせ、大規模な山城としての要害化が図られています。
 また、石積み遺構が残ることが大きな特徴です。このお城は、北側の防御に力が注がれており、上総方面を意識した山城であったと思われます。
 遺構の状況から見ても、戦国時代末期まで使用されていたものと考えられているとともに、一時期は、里見家当主である里見義堯の居城であった可能性もあるといわれています。

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