伊能忠敬の知られざる生涯 〜実は日本地図が作りたいわけではなかった!?
全国を歩いて測量し、初の正確な日本地図を完成させた伊能忠敬。“人間50年”といわれた時代に55歳を過ぎて測量の旅に出かけ、約4万キロもの距離を歩いて日本地図を完成させた根気と体力には感嘆すべきものがありますが、それまでの前半生については意外と知られていません。伊能忠敬が17歳から50歳までの約33年間を過ごした千葉県香取市佐原の旧宅前にある伊能忠敬記念館を訪れ、忠敬の知られざる半生や、日本地図を作り始めた理由、そして完成させた『伊能図』の見どころなどについて伺いました。
国宝2,345点を所蔵する伊能忠敬記念館
江戸時代には利根川による水運で江戸とつながり、栄えた佐原。利根川の支流である小野川周辺は、“北総の小江戸”とも呼ばれ、往時の面影を偲ばせる江戸〜明治期に建てられた商家が今も残っていて、観光客の目を楽しませてくれます。
その一角にある伊能忠敬記念館を訪れ、学芸員の石井秀和さんにお話を伺いました。
「伊能忠敬記念館は、日本で初めての実測による正確な日本地図を完成させた伊能忠敬に関する資料を収集、保存、展示して、忠敬の業績を広く伝えていくための施設です。忠敬が17歳から50歳までの約33年間を過ごした伊能忠敬旧宅から小野川を挟んだ向かい側に建っていて、平成22年に国宝に指定された『伊能忠敬関係資料』2,345点を所蔵しています」(石井さん)
それでは石井さんに伊能忠敬記念館の中を案内していただきましょう。
“江戸優り(えどまさり)”佐原の名家に婿入りするまで
展示の初めは伊能忠敬の“佐原時代”についてです。忠敬は55歳から測量の旅に出ていますが、ここではあまり知られていない50歳までの前半生を紹介しています。
「伊能忠敬は1745年に千葉県九十九里町にある母の実家・小関家に産まれ、幼名を三治郎といいました。しかし、6歳の時に母親が亡くなり、父親は婿養子だったために離縁され、三治郎も10歳の頃には父の実家の神保家に引き取られました。幼少期の三治郎がどういう子どもだったのかというエピソードは、史料が残っておらずよくわかっていません」(石井さん)
佐原とはどのようなきっかけでつながっていくのでしょうか?
「17歳の時に、佐原の伊能家から婿入りの話が来たんです。江戸時代の佐原は“江戸まさり(江戸に勝るとも劣らない)”といわれるほど商いが盛んな村でして、伊能家は佐原で初めてお酒を造った家としても知られ、村役人を務めるような名門でした」(石井さん)
そのような名家から婿入りの話が来るということは、三治郎は相当優秀だったのでしょうね。
「そう考えられるでしょうね。それでも伊能家と神保家では家格のつり合いが取れないということで、三治郎は一旦、両家の共通の親戚であった平山家の養子となって、そこから晴れて伊能家に婿入りすることになりました。この時、平山家が幕府の学問所を統括する林大学頭の門人だったこともあり、その縁で大学頭から“忠敬”という名前を付けてもらいました」(石井さん)
ここで歴史に名を残したあの“伊能忠敬”が誕生したわけですね。
伊能家では商売の才能を発揮し、地域の振興にも貢献
名門商家の伊能家に婿入りした忠敬は、どのような当主になったのでしょうか?
「伊能家には、その資産を記録した『店卸目録帳』が残っているのですが、これによると忠敬が29歳の頃から隠居した49歳までの20年間で、伊能家の収入が約3倍にも増えています。収入源としては、当初の造り酒屋から、酒の原材料となる米の取り扱い、水運、不動産などへと手広く事業を拡大していたことがわかります」(石井さん)
忠敬は経営者としても超一流の才覚を持っていたんですね。
「商才ばかりでなく、幕府が佐原の河岸に対して新たな税金の負担を求めてきた際には、佐原の権益を守るために村を代表して陳情書を書き、税負担が最小限になるような仕事もやっていました。また、ちょうど忠敬が村役人を務めていた頃に浅間山が噴火して、天明の大飢饉に襲われるのですが、忠敬は一揆が起こらないようにあらかじめ関西の方から仕入れていた米を村人たちに配り、佐原村では1人の餓死者も出すことがなかったといわれています」(石井さん)
自分の商売のことだけではなく、村全体のことを考えていたんですね。
「そうですね。また水運を通じて佐原に利益をもたらしてくれる利根川は、度々氾濫していましたので、治水工事にも携わっていました。このとき身につけた測量技術が、のちの地図作りをする際、役立つことになります」(石井さん)
Column
誠実をモットーにした忠敬(伊能家の家訓)
商売で成功し、地元の盟主として佐原の人々からも頼られ、信頼される立場になっていった忠敬は49歳で隠居をします。隠居にあたり、長男の景敬に与えたといわれる『家訓書』には、嘘をついて人を欺かず、正直に生きなさい。目上の人はもちろん、目下の人の意見も聞いて、良いと思ったら取り入れなさい。人と争いを起こさず円満に過ごしなさい。といった内容の3か条が残されています。これを見ると忠敬は誠実に物事をとらえる性格の持ち主だったと考えられますね。
画像:伊能忠敬旧宅にある「家訓書」の石碑
天文暦学を志し、江戸へ
館内展示は、全国測量に向けた伊能忠敬の足どりをたどっていきます。家督を長男に譲り、隠居した忠敬は、50歳で天文暦学を学ぶために江戸へ移住しました。なぜ天文暦学を学びたかったのでしょうか?
「佐原の名主であった伊能家には、代々伝えられていたたくさんの蔵書がありました。当時、立派な商家の旦那衆には、商売のことだけではなく村を統治するための幅広い教養が求められていたんですね。忠敬もいろいろなジャンルの本を読んで、様々な知識を身につけていくうちに、天文暦学に興味を持つようになり、引退後はこれを極めていこうと考えたようです」(石井さん)
江戸へやってきた忠敬は、19歳も年下の幕府天文方トップ・高橋至時(よしとき)に弟子入りをしました。忠敬はどのようにして至時を師と定めたのでしょうか?
「天文暦学というのは、天体の運行を観測して、正しい暦を作るという学問です。高橋至時は当時の最先端であった西洋の天文学を取り入れ、正確な暦を作ることに成功し、寛政の改暦を成し遂げました。これは日本の暦の歴史の中でも画期的なことだったんです」(石井さん)
最先端の学問を究めた先生の弟子になったというわけですね。そこでの忠敬の勉強ぶりはいかがだったのでしょうか?
「通常、門人になって最初に学ぶのは中国の天文暦学書なのですが、忠敬はすでにそれをマスターしていたため、至時からは最新の西洋の天文暦学書を教材として与えられていました。中国の天文暦学については、佐原時代に本を取り寄せたりして勉強していたんですね。
また当時、幕府天文方の浅草天文台には立派な天体観測機器があったのですが、役人がこれをなかなか触らせてくれないので、忠敬は佐原時代に蓄えた財力を活かして同じものを自宅に作り、毎夜、天体観測に没頭しました。おかげでその腕前はメキメキと上がり、その姿に感心した師の至時から“推歩先生(推歩=天文の計算をすること)”と親しみを込めて呼ばれるようになったそうです」(石井さん)
天文暦学に対する忠敬の熱の入れようがうかがえるエピソードですね!
緯度1度の距離を知るために始まった測量プロジェクト
天文暦学にのめり込んでいった忠敬ですが、それがどうして地図作りにつながっていくのでしょうか?
「忠敬や師の至時には正確な暦を作りたいという目標がありましたが、そのためには“地球全体の大きさを知る”必要がありました。ですが、地球を1周して測るわけにはいきません。当時から地球は丸いということはわかっていましたから、南極と北極を結ぶ子午線1度、つまり緯度1度の長さを測ることができれば、計算で地球全体の大きさを割り出せると考えたわけです。向学心旺盛な忠敬は早速行動に移しました。自分が住んでいた深川黒江町と幕府天文台のある浅草までの距離を歩いて測ると、計算をして、緯度1度の長さを割り出してみせたんです」(石井さん)
すごい行動力ですね。それで、その距離は合っていたのでしょうか?
「結果を師の至時に見せたのですが、深川から浅草まででは短すぎる。少なくとも江戸から蝦夷地くらいまでの距離を測らないと、正確な数値は得られないと指摘されてしまいました。
しかし、緯度1度の距離を知りたいという気持ちは至時も同じ。そこで当時、北方から迫っていたロシアの脅威に備えるため、幕府が蝦夷地の地図を欲しているというところに目をつけ、“蝦夷地の正確な地図を作ります”ということを名目に、幕府から蝦夷地までの距離を測る許可を得たのです」(石井さん)
つまり、伊能忠敬の地図作りの旅は、緯度1度の正確な距離を測るために始まったプロジェクトだったんですね。
測量の旅でかかった費用は、忠敬の自腹!?
第1次の測量は忠敬が55歳の時にスタートしました。人員は忠敬を含め、弟子や助手など総勢6名。道中の食事や宿代、弟子たちへの給金など、かかる費用の大半は忠敬が出したということですが本当ですか?
「そうですね。当時、蝦夷地までの距離を測るなどということは前人未到の事例で成功するかどうかもわからなかったので、幕府としては許可だけ与えて、費用はあまり出したくないと考えていました。忠敬率いる測量隊の測量は全部で10回行われていますが、第1次から第4次までの費用は、大半が忠敬の自腹だったんです。
そのため第1次測量では内陸の街道を通り、最短距離で北海道の南まで行くのですが、伊能図の中には凡例に測量した各地の緯度情報まで記載されているものが残っておりまして、そういったところからも緯度1度の距離を測りたいという本来の目的をうかがい知ることができます」(石井さん)
前人未到の測量の旅というのは、さぞ厳しいものだったのでしょうね。
「襟裳岬では険しい岩場を歩くのでわらじが擦り切れてしまい、沿岸部の測量を諦めて山道を行くことにしましたが、途中で日が暮れてしまって地獄に仏を見たと日記に記されています」(石井さん)
各地で様々な困難とぶつかりながらも、続く第2次では東北地方の太平洋側、第3次では日本海側、第4次は東海から北陸地方へと測量の旅を続けていったのですね。
Column
間宮林蔵との出会い
伊能忠敬が作った伊能図には北海道から九州までの日本列島の形が描かれていますが、その完成には間宮海峡を発見した探検家・間宮林蔵の協力が欠かせませんでした。というのも伊能隊における北海道の測量は第1次測量の1回のみで、その結果に自信がなかったと忠敬も日記に記しています。
間宮は第1次測量で忠敬が蝦夷地に渡った際、初めて出会い、江戸の忠敬宅を度々訪問するなどして師弟関係を結んでいました。間宮は忠敬から測量技術を伝授され、自身が北海道を探検した際に測量したデータを忠敬に託しました。
画像:北海道の地図の完成には間宮林蔵の協力が欠かせなかった(『伊能小図(北海道)』出典:東京国立博物館)
東日本地図が将軍の目に留まり、幕府直轄プロジェクトに
第4次までの測量にかった費用は、大半が忠敬の自腹であったのに対し、第5次測量からは幕府が全て出してくれたということですが、どんな理由があったのでしょうか?
「第4次測量ののち、忠敬たちは第1次から第4次までの成果を『東日本沿海図』にまとめて幕府に提出し、その精巧な出来栄えに幕閣たちは驚き、時の将軍・徳川家斉も上覧したといわれています。日本の東半分をよくぞここまで見事に測量したということで、忠敬は幕臣に取り立てられ、第5次からの西日本測量が幕府の御用事業になったからなんです」(石井さん)
幕府直轄プロジェクトになったことで、費用面以外の変化はありましたか?
「幕府から各藩に正式なお達しが出るので、行く先々では村役人がお出迎えをして、人足を派遣してくれるようになり、測量がはかどるようになりました。瀬戸内海では船を出してくれて、小さな島々までほぼ全て測量しています。
各地での待遇は良くなったのですが、第4次まで忠敬に付き従ってきた弟子たちと、第5次から加わることになった幕府天文方の役人との間で揉めごとも起きるようになっていました。忠敬も高齢ですので、健康状態が芳しくない時は、測量隊を離れて療養することもありました。そんな時に揉めごとが顕著になり、腐って隊の規則で定めた禁酒を破ってしまった弟子たちを、忠敬は破門しなければならなくなってしまったんです。
ちなみに第4次測量を終えた時点で、忠敬は本来の目的であった緯度1度の距離を28里2分と計算で割り出しました。この数値が当時、西洋から入ってきたばかりの天文暦学書である『ラランデ暦書』に書かれていたものとほぼ一致しまして、忠敬は師の至時とともに喜んだという記録があります」(石井さん)
Column
忠敬は歯が弱く、実はそんなに健康ではなかった!?
“人間50年”といわれた時代に、55歳から全国約4万キロを歩いて測量して回った伊能忠敬は、さぞ丈夫な体の持ち主だったのではないかと考える人が多いかもしれません。しかし、忠敬にはもともと持病があり、測量の旅の途中でも度々高熱(おこり)に襲われるなど、決して盤石の健康状態で測量に臨んだというわけではありませんでした。
忠敬が娘のイネに送った手紙によると、歯が1本しかなくなってしまい、うまく噛めないので、奈良漬も食べられない。豆腐、蕪、醤などを食べていると綴っています。食べることさえままならない状況下でも、自分が日本全土を測量するのだという使命感に燃え、やりきった忠敬の精神力には感服しますね。
画像:忠敬が娘のイネに宛てた手紙(千葉県香取市 伊能忠敬記念館所蔵)
伊能隊はどのように測量したのか?
忠敬が深川から浅草までの距離を調べた際には、決まった歩幅で歩いて測る“歩測”を使ったようですが、全国測量ではどのような方法を用いたのでしょうか?
「“導線法”という測量方法で行っていました。導線法では道の形に沿って“梵天”という目印を立てて、その間の距離を“間縄(けんなわ)”や“鉄鎖(てっさ)”で測り、またその間の方位角についても“弯窠羅鍼(わんからしん)”と呼ばれる方位盤を用いて計測しました。距離は第1次測量では歩測で測っていましたが、第2次測量以降は道具を使って測りました。
また、山・島などの目標物位置決定のため、“交会法”と呼ばれる測量法も用いています。これは山やお寺の塔といったランドマークを定め、測点ごとにその目標物がどの角度に見えるかというのを“半円方位盤”を用いて測る方法です」(石井さん)
測量方法自体はシンプルですが、それを繰り返し繰り返し測っていくわけですから、気が遠くなるような作業ですね。
「昼間はそうやって地道な測量を続け、夜になると今度は天体観測機器を設置して、星を観測しているんですよ」(石井さん)
星の観測でどのようなことがわかるのですか?
「様々な恒星の高度を“象限儀(中)”を使って観測していたのですが、実は江戸でも同じ星の高度を観測していまして、これらの星の高度を比較することで観測地点の緯度を求めようとしました。導線法や交会法といった従来からある測量方法に加えて、天体観測を行いその結果を地図に反映したところが、伊能図の画期的なところ。現在の地図と比較しても、緯度に関してはすごく正確なものになっているのはこのためなんです」(石井さん)
ここがすごい!伊能図の見方
伊能図は縮尺の違いによって3枚で構成された小図、8枚で構成された中図、214枚で構成された大図がありますが、伊能忠敬記念館で実際のサイズで見るとその大きさにまず圧倒されました。その他に伊能図ならではの特徴や見どころはありますか?
「伊能図は沿岸部を中心に測量をしていて、測量した地点の地名はかなり細かく記載されていますが、測量していないところは描かないというルールが徹底されています。また、測量には絵師も同行していたので、地形の様子など写実的な表現が盛り込まれています」(石井さん)
確かに、内陸部は空白になっている部分も多いですが、沿岸部であれば自分の知っている地名を探してみるのも楽しそうです。
「また、例えば富士山のようにランドマークとなるような山を見ていただくと、それぞれの測点から富士山に向かった赤い方位線が描かれているのがわかると思います。これは先ほどご説明した交会法で各測点から方位を測定した証しになりまして、小図と中図にはこの方位線が描かれています」(石井さん)
見どころがいろいろありますね。東西南北と描かれているカラフルなマークは方位を示しているのでしょうか?
「これは“コンパスローズ”と呼ばれるもので、方位を表わすのと同時に、伊能図では1枚の紙に地図を描くのではなく、複数の紙で日本列島の形を再現していたため、地図をつなぐ目印としても使われていました。」(石井さん)
日本の近世史に刻まれた忠敬の偉業
第10次にまで及んだ全国測量ののち、忠敬の体は弱まり、1818(文政元)年4月、娘の看病の甲斐なく73歳で生涯を閉じます。しかし、その死はすぐには公表されなかったそうですね。
「はい。測量後は幕府に最終成果物として収められる『大日本沿海輿地全図』の制作が忠敬の弟子や幕府天文方の役人たちによって進められていましたが、この地図を作った功績を忠敬のものにするため、その死はすぐには公表されませんでした。ちなみに『大日本沿海輿地全図』が完成したのは、忠敬の死から3年後のことでした」(石井さん)
全国測量の旅に出てから約17年。伊能忠敬が残した業績には、どのような価値があったと考えられるでしょうか?
「伊能忠敬は日本で初めて正確な地図を完成させた人物で、その地図は科学的実測に基づいて作られたものです。非常に高い精度を持っていたため、国内では大正時代くらいまで各方面で活用されていました。日本全国を統一の基準で測量し、そこから得られたデータで地図を作製したのは忠敬が日本で初めてであり、日本の近代地図の礎ともいえる歴史的価値が高いものになります」(石井さん)
緯度1度の距離を測り、正確な地図を作って世の中の役に立ちたい。その志を純粋に持ち続けた忠敬の生涯は、夢の実現のために愚直に努力し、歩み続けることの素晴らしさを物語っていますね。伊能忠敬記念館を訪れてみれば、そんな忠敬の偉業をもっと身近に感じとることができるのではないでしょうか。
伊能忠敬にまつわるスポット
アクセスMAP
- 伊能忠敬記念館
- 伊能忠敬記念公園(伊能忠敬出生地)
- 伊能忠敬旧宅
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