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更新日:2020年11月28日

北総エリア 

 佐倉市/佐倉城(さくらじょう)

戦国時代、佐倉千葉氏により、築城が開始されましたが、江戸期に入り、石垣を用いない近世城郭として完成しました。
佐倉城の城主は、江戸幕府の要職に就くことが多く、長く、城主となった堀田家は、江戸期の幕政を長きにわたり支えた幕府内の重要な家柄でした。
現在、城址には多くの郭や堀の形状が良好に残るとともに、国立歴史民俗博物館建設の際の発掘整備により、空堀と土塁を復元して馬出を再現しています。
佐倉市の指定史跡であるとともに、日本100名城にも選定されている日本を代表する城郭の一つとなっています。

デザインの説明

佐倉城には天守閣となる御三階櫓があり、佐倉城のシンボルとなっていましたが、文化10年(1813年)に焼失し、その後は再建されませんでした。
御城印においては、この御三階櫓の在りし日の雄姿を描くとともに、現在千葉県下有数の桜の名所となっている佐倉城址のイメージをあわせてデザイン化しています。
また、江戸期に幕政を支えた堀田家の家紋も背景として、あしらっております。
なお、この御三階櫓の復元模型は、城内の佐倉城址公園管理センターに展示されております。

ご購入はこちら 
  • 佐倉市観光協会:佐倉市栄町8-7
  • 京成臼井駅前臼井ショッピングセンター内のLIBRO(書店):佐倉市王子台1-23 レイクピアウスイ1F

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佐倉市/臼井城(うすいじょう)

臼井城は臼井氏により城の基礎が作られたといわれるお城ですが、その歴史において、戦国期の関東における重要な攻防戦の舞台に複数回なったお城です。
関東の戦国期の幕開けとなる享徳の乱においては、文明11 年(1479年)武蔵千葉氏に対抗して、佐倉千葉氏が7か月間籠城したと言われています。
この籠城戦は佐倉千葉氏側の敗北に終わりますが、攻城に際して太田道灌の弟(甥という説もあり)の太田資忠が討死を遂げ、現在も土塁上にその墓が残されています。
また、後世の軍記物では、永禄9年(1566年)に、上杉謙信、里見義弘の連合軍に攻められます。この時城主は原胤貞でありましたが、城は落城寸前となります。
しかし、胤貞の奮闘、軍師白井浄三の知謀、助勢に駆け付けた北条方の松田康郷らの働きにより、謙信が大敗する戦いとなり、後世、無敗とも言われた謙信の最大の汚点の戦いと言われています。
このように戦国期においては重要な攻防戦の舞台となったお城でしたが、小田原の役(1590年)以降、徳川家康の関東入封に伴い、酒井家次が城主となりますが、近隣の佐倉城の整備が進んだこともあり、家次の高崎移封に伴い慶長9年(1604年)に廃城となりました。

デザインの説明

戦国期の城主であった臼井氏、原氏の家紋と徳川家康の関東入封後に城主となった酒井家の家紋を配するとともに、現在も城址には郭、空堀、土塁などの主に戦国末期の遺構が良好に残っているところから、その縄張図を組み合わせて、謙信でも落とせなかった城の堅城さを表現して、御城印のデザインとしたものです。

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  • 佐倉市観光協会:佐倉市栄町8-7
  • 京成臼井駅前臼井ショッピングセンター内のLIBRO(書店):佐倉市王子台1-23 レイクピアウスイ1F

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佐倉市/本佐倉城(もとさくらじょう)

下総守護千葉氏が文明年間(1469~1486)に築城し天正18年(1590)に滅亡するまでの約100年間、当主9代が居城した戦国時代の城です。水上交通の大動脈であった印旛浦に面し、主要街道が交差する陸上交通の要衝の地に築かれました。面積約35万平方メートルの規模を誇る本佐倉城は10の郭から構成され、防御性の高い内郭群と広大な外郭群にわけられ、さらにその周囲には城下町が形成されました。すべて土の造成によって構築された大規模な外堀や土塁、穭台に守られた郭群や虎口は現在も明瞭に姿をとどめ戦国時代の城と迫力と息吹を感じさせます。平成10年9月11日の貴重な文化財として国史跡に指定されました。

デザインの説明

千葉市は、北極星・北斗七星を神格化した妙見菩薩を守護神として信仰しました。そのため月と星を象った「月星文」を家紋としました。本佐倉城は戦国時代をとおして千葉市本家の居城でありご城印デザインも「月星文」をひとつ大きく配しました。

 ご購入はこちら
  • 佐倉市観光協会:佐倉市栄町8-7
  • 京成臼井駅前臼井ショッピングセンター内のLIBRO(書店):千葉県佐倉市王子台1-23 レイクピアウスイ1F
  • ふるさと広場売店「佐蘭花」:佐倉市臼井田2714

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佐倉市/謙信一夜城(けんしんいちやじょう)

謙信一夜城

 千葉県佐倉市王子台の台地に築かれた謙信一夜城は、上杉謙信が臼井城攻めの際に築いた陣城と伝わります。今は公園となっていますが、北方に臼井城を望む高台に位置します。

 群雄割拠の戦国時代、武田信玄、北条氏康、上杉謙信という勢力が争う中で、謙信も度々関東に進軍しました。

 永禄8年(1565年)の関東遠征の際には、北条氏の圧迫を受けていた里見氏も上杉軍に加わり北条氏に対抗しました。上杉軍は常陸国小田城などを攻め、永禄9年(1566年)には、臼井城を攻め寄せました。史料によると、臼井城の「実城堀一重」まで上杉軍が攻め寄せたものの、北条氏は以下の原胤貞がこれを撃退したとされます。これにより上杉軍は撤退を余儀なくされ、謙信の関東への直接介入は不可能となりました。

 開発に伴う発掘調査によると、城内の曲輪は100m×70mの方形で、周囲には空堀をめぐらせ、南西には虎口、土橋が架けられていたといいます。南東には食い違いの堀があり、ここにも虎口があった可能性が高いと考えられています。

 調査では中世の遺物は検出されず、城郭遺構を見ても最小限の土木工事と推測される点から、臨時的な用途が推測でき、伝承通りに上杉謙信の臼井城攻めの陣城という可能性も十分に考えられ、遺構は何も残らずとも貴重な史跡と言えます。

デザインの説明

 御城印は上杉謙信の陣城と伝わる伝承に因み、春日山城の上杉謙信の銅造と、成田名所図絵に描かれた上杉謙信の臼井城攻めの場面から、臼井城の城兵に反撃され逃げていく上杉軍をイメージし、モチーフにしました。家紋は古くからの臼井の地を治めていた千葉市の「九曜紋」。国府台合戦以降、千葉氏を配下に置いた北条氏の「三つ鱗」、上杉氏の「竹に雀」、さらに上杉方と戦った里見氏の「二つ引両」を配置しました。

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  • 佐倉市観光協会:佐倉市栄町8-7
  • ふるさと広場売店「佐蘭花」:佐倉市臼井田2714

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佐倉市/宿内砦(しゅくないとりで)

宿内砦

 宿内砦は臼井城(千葉県佐倉市臼井)を守る支城として、臼井大地の東南外縁部に築かれました。ほかにも稲荷台砦、洲崎砦、仲台砦、手久里(たぐり)砦が存在し、これらの支城群で臼井城外郭の守りを固めていたと考えられています。5つとも1辺が100mを超える規模だったとされ、臼井城の台地を守るよう見事に配置されていました。このうち宿内砦は唯一、堀、土塁、虎口などの城郭遺構が良好に残っています。

 臼井城は下総の重要な軍事拠点であり、文明11年(1497年)太田道灌、永禄9年(1566年)に上杉謙信に攻められるなど、大きな合戦が繰り広げられました。その過程の中で、宿内砦をはじめとする支城群が整備されていったと考えられています。

 宿内砦は、開発による破壊の危機にさらされましたが、地元の方々らの保存運動により、現在も戦国期の素晴らし遺構を見ることができます。

デザインの説明

 遺構が良好に残る宿内砦の虎口の土塁をデザインし、戦国期の軍事的緊張の中で築かれた城郭の姿を描きました。さらに、成田名所図絵に描かれた上杉謙信の臼井城攻めの場面から、出陣する兵士と度重なる合戦の舞台になった臼井城とその支城群をイメージし、モチーフにしました。

 家紋は古くからこの地を治めていた千葉一族臼井氏の「九曜紋」と、里見氏に勝利した国府台合戦以降、千葉一族を配下に置いた北条氏の「三つ鱗」を配置しました。

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  • 佐倉市観光協会:佐倉市栄町8-7
  • ふるさと広場売店「佐蘭花」:佐倉市臼井田2714

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 多古町/並木城(なみきじょう)

 

並木城は、多古町南並木地区の台地の南端に占地する戦国・中世城郭であり、記録等によれば1330年代から戦国期末まで城郭として利用されていました。
現在城跡には、南側に土塁と空堀で囲まれた部分があり、主郭と考えられています。主郭の北側の折れを伴った土塁と空堀の二重構造、南東側の巨大な二重の枡形虎口、南側の帯曲輪等の遺構は特に秀逸であり、多古町内にある戦国・中世城郭の中では、もっとも保存状態の良い城郭と考えられています。

デザインの説明

1330年代に生じた北朝方と南朝方の争いの際、並木城直下の「並木のふけ」(現在の多古光湿原辺り、「ふけ」とは湿原・沼沢地をあらわす)において、「ふないくさ」が行われたと考えられる記録が残っています(「悟円書状」)。
並木城の大きな役割として、栗山川、借当川等の水運の要衝にかかわる権利確保があり、そのための拠点城として、当時より並木城は機能していたのではないかと考えられます。
御城印においては、並木城の復元鳥瞰図をモチーフとし、水運、水辺をイメージする青色を主体としてデザインを行うとともに、1330年代、北朝方として並木城と深い関係を有したと思われる千葉胤貞の家紋を配し構成しています。

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  •  道の駅「多古あじさい館」:香取郡多古町多古1069-1

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多古町/志摩城(しまじょう)

志摩城は享徳の乱の際、千葉胤直が籠り、子息の宣胤が籠った多古城ともども、馬加康胤、原胤房らによって攻められ、千葉宗家が滅びる現場となった歴史上重要な戦国・中世城郭です。
現在、城跡には、塙台、二ノ台と言われる東西2つの郭や、この2 つの郭に挟まれた舟着場と見られる場所、枡型虎口等の遺構が良好に残っています。

デザインの説明

志摩城は城跡だけではなく、城下の島集落と一体化された浮城的総構えを有する中世期の防衛遺構と捉えられる城郭であり、地名の「島」は、水田の中に浮かぶ独立丘陵を言い表したものといえます。
ちなみに、この中世期の形態が良くあらわされた江戸期の島全体の古地図が多古町には伝わっており、御城印においては、この古地図をモチーフとして表現を行うとともに、千葉氏の家紋を配してデザイン化しています。

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  •  道の駅「多古あじさい館」:香取郡多古町多古1069-1

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多古町/多古城(たこじょう)

多古台バスターミナルの東側の台地に占地する城跡です。
築城年代については、明確ではありませんが、1455年享徳の乱の際中に、千葉宗家の若武者千葉宣胤が籠り奮戦したお城です。
また戦国期には、現在多古町内の親社大神に祀られる牛尾胤仲が城主となり、多古の治世を行ったお城でもあります。

デザインの説明

多古城跡では、1991年から1998年にかけて行われた発掘調査により、戦国期の畝堀の存在が明らかになりました。
この畝堀は、その後の開発により、惜しくも失われましたが、今も城跡には、畝堀の延長上に折れを伴った技巧的な空堀、帯曲輪、物見台跡、虎口等が良好に残っています。
御城印においては、この発掘により見つかった畝堀の姿を当時の写真をモチーフとして表現するとともに、千葉氏、牛尾氏の家紋を配してデザイン化をいたしました。

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  •  道の駅「多古あじさい館」:香取郡多古町多古1069-1

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多古町/土橋城(つちはしじょう)

 土橋城は、栗山川西岸沿いの南北に伸びた台地先端に築かれています。この地は水陸交通の要衝で、栗山川という水運の幹線と、城下を走る佐原への街道(多古街道)という陸上の幹線を押さえるための場所だったと考えられています。
 隣り合う谷筋にあり、土橋城とも深い関係をもっていた土橋山東禅寺は、鎌倉幕府以来の名刹である金沢山称名寺(横浜市)と繋がりが深く、中世において房総半島でも中心的な寺院でした。土橋城はその東禅寺の出入り口をも見張る役目も担っていました。
 南北朝時代に千葉氏は一族で分裂し、南朝方の千葉貞胤と北朝方の千葉(千田)胤貞が従兄弟どうしでありながら争うことになりました。この南北朝の争乱では「土橋合戦」といわれる戦いが土橋城で繰り広げられたことが「金沢文庫文書」に残ります。
 その後も「享徳の乱」に端を発した千葉宗家滅亡の戦いにも土橋城は関連したと思われ、まさに交通、政治、経済等の最重要地だったのです。

 現在、 土橋城の南側、栗山川を見下ろす台地南端の高まりに、千葉氏の信仰である妙見様が祀られていますが、その高まりは水陸の街道を見張る物見台だったと考えられています。遺構としては薬研の堀や、その堀と食い違いに掘られた堀も確認されており、南北朝の争乱から戦国期へと時代が進む中で堅固な城へと改変されていった土橋城の姿が想像できます。

デザインの説明

 土橋城の城下には「船渡」という地名が残っており、今は水田になっている土橋城の周辺は、中世においては船が行き来できる立地であったことが推測できます。
 さらに土橋城と一体を成している東禅寺は、中世には房総の中心的寺院であり、各地からたくさんの産物などの行き来があったと思われ、その荷の上げ下ろしがされる湊が土橋城の眼下にあったと考えられます。そのことから御城印には士橋城が築かれた台地の遠景をデザインし、人江を描き、船を浮かべました。さらに地形の分かる地図をモチーフにし、千葉氏の家紋「月星」を配蹴しました。

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  •  道の駅「多古あじさい館」:香取郡多古町多古1069-1

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多古町/玉造城(たまつくりじょう)

 玉造城は栗山川東岸に位置し、その支流常磐川との合流域を北に望む樹枝状台地の先端に築かれています。小丘ながらも三方を急峻な崖に囲まれた天然の要害となっています。郭、腰曲輪、空堀、土塁などの遺構が残っており、現在残る南北二つの郭から、直線的に連なる連郭式城郭の姿が推測できます。北側の郭には土塁が良好に残り、南西隅には八幡神社が祀られています。八幡神社の高まりは櫓台と思われ、南側郭との間の空堀と合わせて、守りを固めているのが見てとれます。
 この城の築城者等詳細は不明ですが、弘安年間(1278 年~ 1287 年)に野平伊賀守常弘が城主であったと伝わり、南北朝期においては、千葉胤貞による日本寺防衛のための北側の要塞として整備された可能性も指摘されています。
 天正16年(1588年)に城主だった野平常義は城を明け渡し僧になったとも伝わりますが、戦国期に野平氏は小田原北条氏方に属していたとされ、城跡には天正18 年4月没の常義の墓碑も残っています。そして、同年の小田原合戦で北条氏が豊臣方に敗北すると、玉造城も開城となりました。

デザインの説明

 城下には「宿」という小字名が残っていて、街道が通り、城下が形成されていたことが推測できます。また、「門場」という屋号を持つ家があることからも、そこに城の木戸があったことが推測でき、当時の城の姿が浮かんできます。それらのことから、御城印には江戸時代に描かれた絵図をモチーフにしました。「伊賀守居城」や「大手」などの文字も見てとれます。また、櫓台が玉造城のシンボルと考え、現在、八幡神社が建てられている現地の景色をデザインしました。
 小田原北条氏の敗戦で城が明け渡しとなった際、野平氏の佐良姫がさらわれそうになったのを佐竹義重が助けたという伝承が残り、佐良姫は税のかからない免祖田をもらい庵を立て、暮らしたといいます。その地は今でも「サラ免」という名で呼ばれているといい、土地には玉造城を偲ぶ伝承が色濃く残ります。

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▽いくつかの千葉県「御城印」デザインを手掛ける「山城ガールむつみ」さん▽

  • 山城ガールむつみさんからのメッセージ

千葉県はたくさんの城跡があり、歴史の宝庫です。
千葉氏、里見氏に代表されるような、面白くドラマチックな歴史が満載です。
今ブームになっている「御城印」が地域の歴史や城を知り、大事に思うきっかけになれば嬉しいです。
これからもカッコよく素敵なデザインの御城印が続々と発行されますのでお楽しみに!