ホーム > 集めよう!千葉県の御城印(北総エリア)

ここから本文です。

更新日:2020年8月12日

北総エリア 

 多古町/並木城

 

並木城は、多古町南並木地区の台地の南端に占地する戦国・中世城郭であり、記録等によれば1330年代から戦国期末まで城郭として利用されていました。
現在城跡には、南側に土塁と空堀で囲まれた部分があり、主郭と考えられています。主郭の北側の折れを伴った土塁と空堀の二重構造、南東側の巨大な二重の枡形虎口、南側の帯曲輪等の遺構は特に秀逸であり、多古町内にある戦国・中世城郭の中では、もっとも保存状態の良い城郭と考えられています。

ご城印デザインのご説明

1330年代に生じた北朝方と南朝方の争いの際、並木城直下の「並木のふけ」(現在の多古光湿原辺り、「ふけ」とは湿原・沼沢地をあらわす)において、「ふないくさ」が行われたと考えられる記録が残っています(「悟円書状」)。
並木城の大きな役割として、栗山川、借当川等の水運の要衝にかかわる権利確保があり、そのための拠点城として、当時より並木城は機能していたのではないかと考えられます。
御城印においては、並木城の復元鳥瞰図をモチーフとし、水運、水辺をイメージする青色を主体としてデザインを行うとともに、1330年代、北朝方として並木城と深い関係を有したと思われる千葉胤貞の家紋を配し構成しています。

  •  道の駅「多古あじさい館」:香取郡多古町多古1069-1

ページの先頭へ戻る

多古町/志摩城

志摩城は享徳の乱の際、千葉胤直が籠り、子息の宣胤が籠った多古城ともども、馬加康胤、原胤房らによって攻められ、千葉宗家が滅びる現場となった歴史上重要な戦国・中世城郭です。
現在、城跡には、塙台、二ノ台と言われる東西2つの郭や、この2 つの郭に挟まれた舟着場と見られる場所、枡型虎口等の遺構が良好に残っています。

ご城印デザインのご説明

志摩城は城跡だけではなく、城下の島集落と一体化された浮城的総構えを有する中世期の防衛遺構と捉えられる城郭であり、地名の「島」は、水田の中に浮かぶ独立丘陵を言い表したものといえます。
ちなみに、この中世期の形態が良くあらわされた江戸期の島全体の古地図が多古町には伝わっており、御城印においては、この古地図をモチーフとして表現を行うとともに、千葉氏の家紋を配してデザイン化しています。

  •  道の駅「多古あじさい館」:香取郡多古町多古1069-1

ページの先頭へ戻る

多古町/多古城

多古台バスターミナルの東側の台地に占地する城跡です。
築城年代については、明確ではありませんが、1455年享徳の乱の際中に、千葉宗家の若武者千葉宣胤が籠り奮戦したお城です。
また戦国期には、現在多古町内の親社大神に祀られる牛尾胤仲が城主となり、多古の治世を行ったお城でもあります。

ご城印デザインのご説明

多古城跡では、1991年から1998年にかけて行われた発掘調査により、戦国期の畝堀の存在が明らかになりました。
この畝堀は、その後の開発により、惜しくも失われましたが、今も城跡には、畝堀の延長上に折れを伴った技巧的な空堀、帯曲輪、物見台跡、虎口等が良好に残っています。
御城印においては、この発掘により見つかった畝堀の姿を当時の写真をモチーフとして表現するとともに、千葉氏、牛尾氏の家紋を配してデザイン化をいたしました。

  •  道の駅「多古あじさい館」:香取郡多古町多古1069-1

ページの先頭へ戻る

 佐倉市/佐倉城

戦国時代、佐倉千葉氏により、築城が開始されましたが、江戸期に入り、石垣を用いない近世城郭として完成しました。
佐倉城の城主は、江戸幕府の要職に就くことが多く、長く、城主となった堀田家は、江戸期の幕政を長きにわたり支えた幕府内の重要な家柄でした。
現在、城址には多くの郭や堀の形状が良好に残るとともに、国立歴史民俗博物館建設の際の発掘整備により、空堀と土塁を復元して馬出を再現しています。
佐倉市の指定史跡であるとともに、日本100名城にも選定されている日本を代表する城郭の一つとなっています。

ご城印デザインのご説明

佐倉城には天守閣となる御三階櫓があり、佐倉城のシンボルとなっていましたが、文化10年(1813年)に焼失し、その後は再建されませんでした。
御城印においては、この御三階櫓の在りし日の雄姿を描くとともに、現在千葉県下有数の桜の名所となっている佐倉城址のイメージをあわせてデザイン化しています。
また、江戸期に幕政を支えた堀田家の家紋も背景として、あしらっております。
なお、この御三階櫓の復元模型は、城内の佐倉城址公園管理センターに展示されております。

  • 佐倉市観光協会:佐倉市栄町8-7
  • 京成臼井駅前臼井ショッピングセンター内のLIBRO(書店):佐倉市王子台1-23 レイクピアウスイ1F

ページの先頭へ戻る

佐倉市/臼井城

臼井城は臼井氏により城の基礎が作られたといわれるお城ですが、その歴史において、戦国期の関東における重要な攻防戦の舞台に複数回なったお城です。
関東の戦国期の幕開けとなる享徳の乱においては、文明11 年(1479年)武蔵千葉氏に対抗して、佐倉千葉氏が7か月間籠城したと言われています。
この籠城戦は佐倉千葉氏側の敗北に終わりますが、攻城に際して太田道灌の弟(甥という説もあり)の太田資忠が討死を遂げ、現在も土塁上にその墓が残されています。
また、後世の軍記物では、永禄9年(1566年)に、上杉謙信、里見義弘の連合軍に攻められます。この時城主は原胤貞でありましたが、城は落城寸前となります。
しかし、胤貞の奮闘、軍師白井浄三の知謀、助勢に駆け付けた北条方の松田康郷らの働きにより、謙信が大敗する戦いとなり、後世、無敗とも言われた謙信の最大の汚点の戦いと言われています。
このように戦国期においては重要な攻防戦の舞台となったお城でしたが、小田原の役(1590年)以降、徳川家康の関東入封に伴い、酒井家次が城主となりますが、近隣の佐倉城の整備が進んだこともあり、家次の高崎移封に伴い慶長9年(1604年)に廃城となりました。

ご城印デザインのご説明

戦国期の城主であった臼井氏、原氏の家紋と徳川家康の関東入封後に城主となった酒井家の家紋を配するとともに、現在も城址には郭、空堀、土塁などの主に戦国末期の遺構が良好に残っているところから、その縄張図を組み合わせて、謙信でも落とせなかった城の堅城さを表現して、御城印のデザインとしたものです。

  • 佐倉市観光協会:佐倉市栄町8-7
  • 京成臼井駅前臼井ショッピングセンター内のLIBRO(書店):佐倉市王子台1-23 レイクピアウスイ1F

ページの先頭へ戻る

佐倉市/本佐倉城

下総守護千葉氏が文明年間(1469~1486)に築城し天正18年(1590)に滅亡するまでの約100年間、当主9代が居城した戦国時代の城です。水上交通の大動脈であった印旛浦に面し、主要街道が交差する陸上交通の要衝の地に築かれました。面積約35万平方メートルの規模を誇る本佐倉城は10の郭から構成され、防御性の高い内郭群と広大な外郭群にわけられ、さらにその周囲には城下町が形成されました。すべて土の造成によって構築された大規模な外堀や土塁、穭台に守られた郭群や虎口は現在も明瞭に姿をとどめ戦国時代の城と迫力と息吹を感じさせます。平成10年9月11日の貴重な文化財として国史跡に指定されました。

ご城印デザインのご説明

千葉市は、北極星・北斗七星を神格化した妙見菩薩を守護神として信仰しました。そのため月と星を象った「月星文」を家紋としました。本佐倉城は戦国時代をとおして千葉市本家の居城でありご城印デザインも「月星文」をひとつ大きく配しました。

  • 佐倉市観光協会:佐倉市栄町8-7
  • 京成臼井駅前臼井ショッピングセンター内のLIBRO(書店):千葉県佐倉市王子台1-23 レイクピアウスイ1F
  • ふるさと広場売店「佐蘭花」:佐倉市臼井田2714

ページの先頭へ戻る

旅して集めよう!千葉県で買える御城印はこちら!

ベイエリア

 

東葛飾エリア

北総エリア

南房総エリア

かずさ・臨海エリア

▽いくつかの千葉県「御城印」デザインを手掛ける「山城ガールむつみ」さん▽

  • 山城ガールむつみさんからのメッセージ

千葉県はたくさんの城跡があり、歴史の宝庫です。
千葉氏、里見氏に代表されるような、面白くドラマチックな歴史が満載です。
今ブームになっている「御城印」が地域の歴史や城を知り、大事に思うきっかけになれば嬉しいです。
これからもカッコよく素敵なデザインの御城印が続々と発行されますのでお楽しみに!