ホーム > 集めよう!千葉県の御城印(北総エリア)

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更新日:2021年6月28日

北総エリア 

 

 印西市

 師戸城(もろとじょう)

 師戸城は千菓県印西市にあり、印旛沼を臨む水上交通の要の城です。印旛沼に突き出た台地を利用して築かれました。印旛沼を挟んだ南方1.5kmの位置に臼井城があり、この両城は連携して機能したと考えられます。
 師戸城は鎌倉時代に千葉氏の系統である師戸四郎が築城したとも言われますが、築城年代や築城主は不明です。今に残る城の姿は、戦国期の軍事的緊張の中で築かれたものと推察でき、臼井城で合戦が行われた際は師戸城が駐屯や兵姑の役割を果たしたと思われます。
台地の北側の付け根には東側から谷が人り込み、その谷が長方形に整地されていることから、この辺りが居館跡、さらにその南側に城下や湊があったと考えられています。
鎌倉時代からの名族千葉氏がこの地を治め、一族の内紛などを経て、同族の原氏が居城とした可能性が高いです。
 臼井城は、徳川家康の関東移封に伴い酒井家次が慶長9年(1604年)まで在城し、まもなく、廃城になりました。それに伴い、師戸城も廃城になったと考えられています。

デザインの説明

 臼井城とともに印旛沼の水上交通の要衝であり、さらに臼井城と連携して機能したと推測される師戸城。まさに師戸城と臼井城は印膳沼を挟んで両立する地形が鍵になるため、御城印には、印廂沼と師戸城、臼井城が築かれた台地をデザインしました。
 さらに城山をモチーフにし、小舟を描き、水上交通の重要地点だった印膳沼と師戸城をイメージしました。
 家紋は古くからこの地を治めていた千葉氏の「九曜紋」を配置しました。

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  • 佐倉市観光協会:佐倉市栄町8-7/TEL 043-486-6000
  • ふるさと広場売店「佐蘭花」:佐倉市臼井田2714/TEL 043-486-6000
  • JR佐倉駅前観光情報センター:佐倉市六崎235/TEL 043-485-9700

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 香取市

 小見川城(おみがわじょう)

 

 小見川城は香取の海に突き出した半島状の標高40mほどの台地の上に築かれました。現在、城跡は小見川城山公園になっていて、部分的ではあるものの、戦国期の土塁や空堀が良好に残ります。
 建久年間(1190年~1199年)に千葉一族である粟飯原朝秀によって築かれたという伝承がありますが、築城に関する詳細は不明です。現在残る遺構は戦国期のものであり、香取の海と直結する水運の要衝0)ため常に地域の要として機能していたと考えられ、代々、粟飯原氏が居城としました。
 永禄3年(1561年)上杉謙信(長尾景虎)の関東出陣に呼応し、正木時忠が下総国に侵出、小見川城 も攻撃を受けました。そのような戦国期の状況を経て、小田原北条氏がこの地域にも侵出してくると、 主筋の千葉氏とともに北条氏に属しました。
 天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原攻めの際には、当主俊胤は主君千葉重胤とともに小田原城へ駆けつけ豊臣軍と戦いました。しかし、小田原城は落ち、それとともに小見川城も落城しました。

デザインの説明

 千葉一族である粟飯原氏の小見川城の御城印には、千葉宗家の家紋「月屋」、そして千葉一族の家紋「九曜」、さらには粟飯原氏の家紋「三本竹」を配置しました。
 小田原北条氏が豊臣秀吉に攻められ小田原城が落ちると、徳川家康が関東に入ってきます。そのときに徳川配下の武将たちが同じく関東に配属されました。
 粟飯原氏は小田原合戦での敗北後、家康の子信吉に仕え佐倉に入り、粟飯原氏の後に、小見川に入封したのが松平家忠です。家忠は忍城に入った後、小見川に移封され、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いに出陣し命を落としました。
 その後、土井利勝などの入封や一時の廃藩を経るも、小見川藩は藩として明治まで存続しました。

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 森山城(もりやまじょう)

 森山城は中世には「香取の海」と呼ばれた広大な内海に面する台地の上に位質します。標高50mほどで、西側と南側は低湿地の水田となっている天然の要害を利用して築かれた戦国時代の城郭です。
このあたりの地域は、鎌倉時代から千葉一族「東(とう)氏」の本拠地で、森山城の東側に隣接している須賀山城(東庄町)は東氏が築いた城と伝わります。
 東氏が美濃国(現在の岐阜県郡上八幡市)に移ると、この地は東氏の庶流である海上(うなかみ)氏の統治となりました。千葉宗家当主昌胤の子の胤富は、当初、海上氏の養子に人り森山城の城主となりました。しかし、兄の親胤が家臣に殺されると、本家に戻って当主の座を鏃ぎ、本佐倉城(酒々井町) に移りました。胤富は本佐倉城に行った後も、常陸国との境に当たり、千葉氏領国の北境の城である森山城を重要視し、一族の有力者を森山城の城主に据え拡張整備しました。
 千葉氏は小田原北条氏に属しており、豊臣秀吉による天正18年(1590年)の小田原攻めの際には、当主重胤が小田原 城で戦うも落城。それにより、森山城も戦国時代の城としての役目を終えたと思われます。

デザインの説明

 千葉宗家当主胤宮が当主の座につくまでの居城とし、その後も当城の重要性を感じ拡張整備しながら重要拠点とした森山城の御城印には、千葉氏の家紋「月星」を配躍しました。
 森山城の当時の様子を伝える責重な「原文書」とよばれる史料があります。これは、福井藩士であった原氏に伝わった文書です。原氏は千葉氏の一族であり、さらにその分家が森山城主として城を任されていました。その原氏に伝わる文書が「原文書」です。内容は領内の統治に関わる指示が中心で、軍事、 徴税、儀礼など多岐にわたっています。その貴重な文書に書かれた胤富の花押と、胤富のものと思われる競の黒印をモチー フにしました。
 そして、物資の流通まで管理できるほど水運掌握のための重要拠点であり、後に小田原北条氏の支城として拡張整備された森山城の縄張図をデザインしました。現地には、士塁や空堀、馬出などの遺構が良好に残っています。

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 佐倉市

 臼井城(うすいじょう)

臼井城は臼井氏により城の基礎が作られたといわれるお城ですが、その歴史において、戦国期の関東における重要な攻防戦の舞台に複数回なったお城です。
関東の戦国期の幕開けとなる享徳の乱においては、文明11 年(1479年)武蔵千葉氏に対抗して、佐倉千葉氏が7か月間籠城したと言われています。
この籠城戦は佐倉千葉氏側の敗北に終わりますが、攻城に際して太田道灌の弟(甥という説もあり)の太田資忠が討死を遂げ、現在も土塁上にその墓が残されています。
また、後世の軍記物では、永禄9年(1566年)に、上杉謙信、里見義弘の連合軍に攻められます。この時城主は原胤貞でありましたが、城は落城寸前となります。
しかし、胤貞の奮闘、軍師白井浄三の知謀、助勢に駆け付けた北条方の松田康郷らの働きにより、謙信が大敗する戦いとなり、後世、無敗とも言われた謙信の最大の汚点の戦いと言われています。
このように戦国期においては重要な攻防戦の舞台となったお城でしたが、小田原の役(1590年)以降、徳川家康の関東入封に伴い、酒井家次が城主となりますが、近隣の佐倉城の整備が進んだこともあり、家次の高崎移封に伴い慶長9年(1604年)に廃城となりました。

デザインの説明

戦国期の城主であった臼井氏、原氏の家紋と徳川家康の関東入封後に城主となった酒井家の家紋を配するとともに、現在も城址には郭、空堀、土塁などの主に戦国末期の遺構が良好に残っているところから、その縄張図を組み合わせて、謙信でも落とせなかった城の堅城さを表現して、御城印のデザインとしたものです。

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  • 佐倉市観光協会:佐倉市栄町8-7/TEL 043-486-6000
  • 京成臼井駅前臼井ショッピングセンター内のLIBRO(書店):佐倉市王子台1-23 レイクピアウスイ1F

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 謙信一夜城(けんしんいちやじょう)

謙信一夜城

 千葉県佐倉市王子台の台地に築かれた謙信一夜城は、上杉謙信が臼井城攻めの際に築いた陣城と伝わります。今は公園となっていますが、北方に臼井城を望む高台に位置します。

 群雄割拠の戦国時代、武田信玄、北条氏康、上杉謙信という勢力が争う中で、謙信も度々関東に進軍しました。

 永禄8年(1565年)の関東遠征の際には、北条氏の圧迫を受けていた里見氏も上杉軍に加わり北条氏に対抗しました。上杉軍は常陸国小田城などを攻め、永禄9年(1566年)には、臼井城を攻め寄せました。史料によると、臼井城の「実城堀一重」まで上杉軍が攻め寄せたものの、北条氏は以下の原胤貞がこれを撃退したとされます。これにより上杉軍は撤退を余儀なくされ、謙信の関東への直接介入は不可能となりました。

 開発に伴う発掘調査によると、城内の曲輪は100m×70mの方形で、周囲には空堀をめぐらせ、南西には虎口、土橋が架けられていたといいます。南東には食い違いの堀があり、ここにも虎口があった可能性が高いと考えられています。

 調査では中世の遺物は検出されず、城郭遺構を見ても最小限の土木工事と推測される点から、臨時的な用途が推測でき、伝承通りに上杉謙信の臼井城攻めの陣城という可能性も十分に考えられ、遺構は何も残らずとも貴重な史跡と言えます。

デザインの説明

 御城印は上杉謙信の陣城と伝わる伝承に因み、春日山城の上杉謙信の銅造と、成田名所図絵に描かれた上杉謙信の臼井城攻めの場面から、臼井城の城兵に反撃され逃げていく上杉軍をイメージし、モチーフにしました。家紋は古くからの臼井の地を治めていた千葉市の「九曜紋」。国府台合戦以降、千葉氏を配下に置いた北条氏の「三つ鱗」、上杉氏の「竹に雀」、さらに上杉方と戦った里見氏の「二つ引両」を配置しました。

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 佐倉城(さくらじょう)

戦国時代、佐倉千葉氏により、築城が開始されましたが、江戸期に入り、石垣を用いない近世城郭として完成しました。
佐倉城の城主は、江戸幕府の要職に就くことが多く、長く、城主となった堀田家は、江戸期の幕政を長きにわたり支えた幕府内の重要な家柄でした。
現在、城址には多くの郭や堀の形状が良好に残るとともに、国立歴史民俗博物館建設の際の発掘整備により、空堀と土塁を復元して馬出を再現しています。
佐倉市の指定史跡であるとともに、日本100名城にも選定されている日本を代表する城郭の一つとなっています。

デザインの説明

佐倉城には天守閣となる御三階櫓があり、佐倉城のシンボルとなっていましたが、文化10年(1813年)に焼失し、その後は再建されませんでした。
御城印においては、この御三階櫓の在りし日の雄姿を描くとともに、現在千葉県下有数の桜の名所となっている佐倉城址のイメージをあわせてデザイン化しています。
また、江戸期に幕政を支えた堀田家の家紋も背景として、あしらっております。
なお、この御三階櫓の復元模型は、城内の佐倉城址公園管理センターに展示されております。

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  • 京成臼井駅前臼井ショッピングセンター内のLIBRO(書店):佐倉市王子台1-23 レイクピアウスイ1F

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 宿内砦(しゅくないとりで)

宿内砦

 宿内砦は臼井城(千葉県佐倉市臼井)を守る支城として、臼井大地の東南外縁部に築かれました。ほかにも稲荷台砦、洲崎砦、仲台砦、手久里(たぐり)砦が存在し、これらの支城群で臼井城外郭の守りを固めていたと考えられています。5つとも1辺が100mを超える規模だったとされ、臼井城の台地を守るよう見事に配置されていました。このうち宿内砦は唯一、堀、土塁、虎口などの城郭遺構が良好に残っています。

 臼井城は下総の重要な軍事拠点であり、文明11年(1497年)太田道灌、永禄9年(1566年)に上杉謙信に攻められるなど、大きな合戦が繰り広げられました。その過程の中で、宿内砦をはじめとする支城群が整備されていったと考えられています。

 宿内砦は、開発による破壊の危機にさらされましたが、地元の方々らの保存運動により、現在も戦国期の素晴らし遺構を見ることができます。

デザインの説明

 遺構が良好に残る宿内砦の虎口の土塁をデザインし、戦国期の軍事的緊張の中で築かれた城郭の姿を描きました。さらに、成田名所図絵に描かれた上杉謙信の臼井城攻めの場面から、出陣する兵士と度重なる合戦の舞台になった臼井城とその支城群をイメージし、モチーフにしました。

 家紋は古くからこの地を治めていた千葉一族臼井氏の「九曜紋」と、里見氏に勝利した国府台合戦以降、千葉一族を配下に置いた北条氏の「三つ鱗」を配置しました。

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 本佐倉城(もとさくらじょう)

下総守護千葉氏が文明年間(1469~1486)に築城し天正18年(1590)に滅亡するまでの約100年間、当主9代が居城した戦国時代の城です。水上交通の大動脈であった印旛浦に面し、主要街道が交差する陸上交通の要衝の地に築かれました。面積約35万平方メートルの規模を誇る本佐倉城は10の郭から構成され、防御性の高い内郭群と広大な外郭群にわけられ、さらにその周囲には城下町が形成されました。すべて土の造成によって構築された大規模な外堀や土塁、穭台に守られた郭群や虎口は現在も明瞭に姿をとどめ戦国時代の城と迫力と息吹を感じさせます。平成10年9月11日の貴重な文化財として国史跡に指定されました。

デザインの説明

千葉市は、北極星・北斗七星を神格化した妙見菩薩を守護神として信仰しました。そのため月と星を象った「月星文」を家紋としました。本佐倉城は戦国時代をとおして千葉市本家の居城でありご城印デザインも「月星文」をひとつ大きく配しました。

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 多古町

 久保城(くぼじょう)

 久保城は、千葉氏宗家当主千葉胤貞(1288年-1336年)が居館として築いたものと伝わります。多古の中心ともいえる中村に創建された古刹日本寺の古文書にも、胤貞の居館は「久保(窪)」にあったと記されています。久保城は土地の伝承と古文書からも、千田殿」と呼ばれていた胤貞の存在を裏付ける重要な城といえます。
 同じく中村の分城や中城は、久保城を守る防衛拠点として胤貞が築いたとされています。
平安末期から、多古は「千田荘」という荘園の中心地で千葉氏の領地でした。千葉氏は源頼朝に助力し、鎌倉幕府の成立に大きく貢献、そして勢力を拡大していきました。
 しかし、鎌倉幕府が滅亡すると、千葉一族も足利尊氏派と後醍醐天皇派に別れて戦いました。胤貞は尊氏派につき、後醍醐天皇派についた従弟の貞胤と争いました。そのような中で多古も戦の舞台となり、多くの城が築かれました。
 戦国期に入り、また戦乱の舞台となった多古の城は整備拡張されて使われていたと思われます。久保城周辺には土塁や空堀などの遺構が残っています。

デザインの説明

 久保城は、中世には湖沼等低湿地帯が広がっていた栗山川流域を見下ろす台地の西端に築かれました。 久保城の直下には、栗山川から日本寺がある中村の台地に向かって谷津が入り込みます。久保城は、まさに中村の台地の人口に当たる要衝地ともいえます。現在の久保集落のある台地全体を取り込むように館を構えたと思われます。
 御城印には、久保城周辺の地図をデザインし、千葉氏の家紋「月星」を配置しました。
また、千葉氏は承久の乱の功で肥前国小城郡(佐賀県小城市)を領地としていました。胤貞の祖父頼胤、父宗胤が元寇に際し九州に異国晋護番として赴くと、胤貞の叔父である胤宗とその子貞胤が本領の下総国の実力者となったため、胤貞は本領の千田荘と小城の統治に腐心しました。千田荘では中村を中心とし、自らが帰依していた日蓮宗寺院を厚く保護しました。
 そして、領国経営を始めた小城では、東国文化を持ち込み、九州千葉氏の祖となりました。小城には九
州千葉氏ゆかりの城跡や寺院などが今でも残り、その歴史を今に伝えてくれます。御城印には、その小城にある九州千葉氏の菩提寺「松尾山光勝寺」に残る胤貞座像を描きました。

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 志摩城(しまじょう)

志摩城は享徳の乱の際、千葉胤直が籠り、子息の宣胤が籠った多古城ともども、馬加康胤、原胤房らによって攻められ、千葉宗家が滅びる現場となった歴史上重要な戦国・中世城郭です。
現在、城跡には、塙台、二ノ台と言われる東西2つの郭や、この2 つの郭に挟まれた舟着場と見られる場所、枡型虎口等の遺構が良好に残っています。

デザインの説明

志摩城は城跡だけではなく、城下の島集落と一体化された浮城的総構えを有する中世期の防衛遺構と捉えられる城郭であり、地名の「島」は、水田の中に浮かぶ独立丘陵を言い表したものといえます。
ちなみに、この中世期の形態が良くあらわされた江戸期の島全体の古地図が多古町には伝わっており、御城印においては、この古地図をモチーフとして表現を行うとともに、千葉氏の家紋を配してデザイン化しています。

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 多古城(たこじょう)

多古台バスターミナルの東側の台地に占地する城跡です。
築城年代については、明確ではありませんが、1455年享徳の乱の際中に、千葉宗家の若武者千葉宣胤が籠り奮戦したお城です。
また戦国期には、現在多古町内の親社大神に祀られる牛尾胤仲が城主となり、多古の治世を行ったお城でもあります。

デザインの説明

多古城跡では、1991年から1998年にかけて行われた発掘調査により、戦国期の畝堀の存在が明らかになりました。
この畝堀は、その後の開発により、惜しくも失われましたが、今も城跡には、畝堀の延長上に折れを伴った技巧的な空堀、帯曲輪、物見台跡、虎口等が良好に残っています。
御城印においては、この発掘により見つかった畝堀の姿を当時の写真をモチーフとして表現するとともに、千葉氏、牛尾氏の家紋を配してデザイン化をいたしました。

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 多古藩陣屋(たこはんじんや)

 多古藩陣屋は、 現在の多古第一小学校周辺の小高い場所に築かれました。
多古は、古くから名族千葉一族ゆかりの地で、享徳の乱に端を発した一族の内紛で千葉市宗家が多古で滅ぶなど、中世を通して下総国内で重要な地でした。
 天正18年(1590年)に小田原北条氏が豊臣秀吉に攻められ、戦国大名として滅亡すると、徳川家康が関東に入封しました。そして、多古には家康家臣の信濃高遠城主保科正光が入りましたが、関ヶ原の戦い(1600年)後に正光は加増され高遠藩に移ったため、多古藩は一時廃藩となりました。
 寛永12年(1635年)に8千石の旗本松平(久松)勝義が、上総国武射郡と下総国香取郡に所領をもらい、多古に陣屋を構えます。 これが多古藩陣屋のはじまりです。そして、延宝8年(1680年)に家督を継いだ勝義の九男勝以(かつゆき)は加増を受け、1万2千石の大名となり、多古藩が再び立藩されました。以後、久松松平氏が多古藩領主として存続し明治に至ります。
 当時、陣屋の敷地は板塀や石垣で囲われていましたが、現在は多古第一小学校の校庭となり、陣屋前面の石垣の一部がわずかに残るだけです。しかしながら、全国的に石垣が築かれた陣屋は珍しく、このことからも多古藩1万2千石の威光が想像でき、この陣屋が多古藩の政治の中心地であった往時が偲ばれます。

デザインの説明

 多古藩陣屋の御城印には昭和8年に描かれた多古町の鳥諏図をモチーフにし、町の風景を描きました。あわせて、江戸時代に発行された「下総名勝図絵」に描かれた多古藩陣屋の表門遠景もデザインしました。
 久松松平家の家紋「星梅鉢」、さらに「六つ葵」を配置しました。久松松平家は徳川家から葵の紋の使用を許されていました。

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 玉造城(たまつくりじょう)

 玉造城は栗山川東岸に位置し、その支流常磐川との合流域を北に望む樹枝状台地の先端に築かれています。小丘ながらも三方を急峻な崖に囲まれた天然の要害となっています。郭、腰曲輪、空堀、土塁などの遺構が残っており、現在残る南北二つの郭から、直線的に連なる連郭式城郭の姿が推測できます。北側の郭には土塁が良好に残り、南西隅には八幡神社が祀られています。八幡神社の高まりは櫓台と思われ、南側郭との間の空堀と合わせて、守りを固めているのが見てとれます。
 この城の築城者等詳細は不明ですが、弘安年間(1278 年~ 1287 年)に野平伊賀守常弘が城主であったと伝わり、南北朝期においては、千葉胤貞による日本寺防衛のための北側の要塞として整備された可能性も指摘されています。
 天正16年(1588年)に城主だった野平常義は城を明け渡し僧になったとも伝わりますが、戦国期に野平氏は小田原北条氏方に属していたとされ、城跡には天正18 年4月没の常義の墓碑も残っています。そして、同年の小田原合戦で北条氏が豊臣方に敗北すると、玉造城も開城となりました。

デザインの説明

 城下には「宿」という小字名が残っていて、街道が通り、城下が形成されていたことが推測できます。また、「門場」という屋号を持つ家があることからも、そこに城の木戸があったことが推測でき、当時の城の姿が浮かんできます。それらのことから、御城印には江戸時代に描かれた絵図をモチーフにしました。「伊賀守居城」や「大手」などの文字も見てとれます。また、櫓台が玉造城のシンボルと考え、現在、八幡神社が建てられている現地の景色をデザインしました。
 小田原北条氏の敗戦で城が明け渡しとなった際、野平氏の佐良姫がさらわれそうになったのを佐竹義重が助けたという伝承が残り、佐良姫は税のかからない免祖田をもらい庵を立て、暮らしたといいます。その地は今でも「サラ免」という名で呼ばれているといい、土地には玉造城を偲ぶ伝承が色濃く残ります。

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 次浦城(つぎうらじょう)

  次浦城は、栗山川の支流である沼田川沿いの台地上に築かれました。現在、この台地上には、次浦の集落が広がっています。標高は約30mほどで、周囲には自然地形を人工的に加工した形跡が見てとれ、北側は切り立った崖となっています。
 この台地の北西側一郭には、土塁と空堀で囲まれた方形の区画が残っています。この辺りは地名(字名)を「城山」といい主郭と思われますが、城域全体が集落と重なっているため、その他の城郭構造は不明です。しかし、周辺には城郭に関連する「馬場小屋」「内小屋」「土橋」「馬場道」などの字名が残り当時を偲ばせます。
 築城年代や城主は不明ですが、次浦八郎常盛の居城だったとも伝わり、この人物は千葉常兼の弟、粟
飯原五郎家常の4 男であることから、千葉一族との関連が指摘されます。
 多古は「千田荘」とよばれる荘園で、千葉一族の支配地でした。千葉宗家当主の胤貞は「千田殿」と呼ばれていて、千葉宗家と多古が密接に関係することがわかっています。鎌倉幕府滅亡後に多古の土橋城周辺で起きた「土橋合戦」には次浦氏も関わっていて、この次浦城を拠点に戦いに臨んだと思われます。また、次浦氏は土橋城下にある東禅寺の大旦那だったことも金沢文庫古文書からわかっています。
 その後もたびたび多古が戦いの場になると、次浦城も城郭として拡張整備されていったと考えられます。

デザインの説明

 次浦城から800mほど西方に次浦八郎常盛の館と伝わる居館跡があります。このことから次浦の台地周辺一帯を次浦氏が治めていたものと推測できます。
 その居館跡近くの山中に「矢指塚」といわれる塚があります。これは、後三年の役で源義家に従い出陣した次浦常盛が戦いに勝利し戻った際に、戦場で使わず残った矢を記念に埋めた、もしくは前九年の役の凱旋の際に、義家が上総の海岸に100本の矢を1 里ごとに突き刺しながら戻ってくる途中、この次浦に最後の1本を埋めた記念の塚とも伝わります。
 次浦の台地に城館が築かれたことから、台地の地図をモチーフにし、千葉一族の家紋「九曜紋」を配置しました。そして、矢指の伝説にちなみ「矢」をデザインしました。

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 土橋城(つちはしじょう)

 土橋城は、栗山川西岸沿いの南北に伸びた台地先端に築かれています。この地は水陸交通の要衝で、栗山川という水運の幹線と、城下を走る佐原への街道(多古街道)という陸上の幹線を押さえるための場所だったと考えられています。
 隣り合う谷筋にあり、土橋城とも深い関係をもっていた土橋山東禅寺は、鎌倉幕府以来の名刹である金沢山称名寺(横浜市)と繋がりが深く、中世において房総半島でも中心的な寺院でした。土橋城はその東禅寺の出入り口をも見張る役目も担っていました。
 南北朝時代に千葉氏は一族で分裂し、南朝方の千葉貞胤と北朝方の千葉(千田)胤貞が従兄弟どうしでありながら争うことになりました。この南北朝の争乱では「土橋合戦」といわれる戦いが土橋城で繰り広げられたことが「金沢文庫文書」に残ります。
 その後も「享徳の乱」に端を発した千葉宗家滅亡の戦いにも土橋城は関連したと思われ、まさに交通、政治、経済等の最重要地だったのです。

 現在、 土橋城の南側、栗山川を見下ろす台地南端の高まりに、千葉氏の信仰である妙見様が祀られていますが、その高まりは水陸の街道を見張る物見台だったと考えられています。遺構としては薬研の堀や、その堀と食い違いに掘られた堀も確認されており、南北朝の争乱から戦国期へと時代が進む中で堅固な城へと改変されていった土橋城の姿が想像できます。

デザインの説明

 土橋城の城下には「船渡」という地名が残っており、今は水田になっている土橋城の周辺は、中世においては船が行き来できる立地であったことが推測できます。
 さらに土橋城と一体を成している東禅寺は、中世には房総の中心的寺院であり、各地からたくさんの産物などの行き来があったと思われ、その荷の上げ下ろしがされる湊が土橋城の眼下にあったと考えられます。そのことから御城印には士橋城が築かれた台地の遠景をデザインし、人江を描き、船を浮かべました。さらに地形の分かる地図をモチーフにし、千葉氏の家紋「月星」を配蹴しました。

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 土やぐら城(つちやぐらじょう)

土やぐら城

 土やぐら城は多古町の南東部、中村地区の借当川流域を臨む台地の先端に築かれました。この台地の中央を走る「中城坂」を挟んで、北西300メートルほどの位賀には物見台城(物見台跡)があり、中村中央の台地へと続くこの坂を物見台城と連携し、監視していたと思われます。土やぐら城の構造は判然としませんが、物見台城と一体となって機能することで効力を発揮したのでしょう。櫓台、士塁が今も現地に残り、かつては堀がめぐっていたとも伝わります。
 この二つの城が築かれた台地の西側は、中村中央の台地に向かって谷(相ノ谷)が深く切れ込んでいます。さらに南から東にかけては借当川とその支流の平野部に接しています。土やぐら城は、この周辺地域の水運掌握のための監視所的な役割を担わされていたと推察できます。
 借当川の上流部は、かつての椿海に通じ多古周辺地域の水運の要衝であり、香取地方へと繋がる街道も存在したことから、借当川流域が水陸交通の要衝だったことがわかります。治承4年(1180年)の源頼朝旗揚げの際、房総半島から立て直しを図る頼朝側に対し、平家方として戦いを挑んだ藤原(千田)親政の居館も借当川上流にあったとされ、この流域は古代より開けた重要な地域だったのです。

デザインの説明

 多古町には、江戸時代に描かれた土やぐら城の絵図が残っています。絵図には、「土やぐら」という名称の語源となったと思われる櫓台のような高まり(土屋くら)や土塁が描かれており、それらは現存する遺構の形態とほとんど変わっていません。土やぐら城は小規模な城郭ながらも、400年以上前の城の姿を今に伝える大変責重な城郭遺構といえるでしょう。
 御城印には、その絵図をデザインするとともに、多古町中村地区とは特に歴史的かかわりの深い千葉氏の家紋「月星」を配置しました。そして、土やぐら城は監視所として機能していたと考えられることから、櫓をイメージし、表現しました。

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 中城(なかじょう)

 中城は多古町南東部の中村地区に位置し、中村小学校の東方、借当川に開けた谷津に突き出た舌状台地に築かれました。周辺の台地は、「中村の台地」とも呼ばれ、鎌倉時代や南北朝時代に開山された古刹正東山日本寺や正峰山妙興寺、竹林山妙光寺などがあり、まさに多古の中心地ともいえます。
 千葉氏宗家当主だった千葉胤貞(1288年-1336年)がこの台地上に「中城」という城を築いたとも伝わりますが詳細は定かではありません。「中城」いう地名は、谷を隔てた諏訪神社側の台地上にも残っていて、台地全体を広義の意味での「中城」とする考えもあります。いずれにしろ、中村の台地全体が要衝地であり、戦国期に改修整備が施され、重要な防衛拠点として使われたと考えられます。

デザインの説明

 中城の築かれた中村の台地には、鎌倉時代から日本寺をはじめとする日蓮宗寺院が建てられ、北総一円の日蓮宗の布教拠点となっていました。千葉氏宗家は熱心な日蓮宗徒であり、このことからも千葉氏宗家と多古の関係の深さが分かります。
 日本寺には全国から多くの学僧が集まり、慶長4年(1599年)になると、僧侶の学問所として後に関東三大檀林に数えられる「中村檀林」の開講となりました。
 御城印には、中世からの重要地に築かれた中城の縄張図を中心にデザインするとともに、千葉氏の家紋である「月星」を配置しました。

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 並木城(なみきじょう)

 

 並木城は、多古町南並木地区の台地の南端に占地する戦国・中世城郭であり、記録等によれば1330年代から戦国期末まで城郭として利用されていました。
 現在城跡には、南側に土塁と空堀で囲まれた部分があり、主郭と考えられています。主郭の北側の折れを伴った土塁と空堀の二重構造、南東側の巨大な二重の枡形虎口、南側の帯曲輪等の遺構は特に秀逸であり、多古町内にある戦国・中世城郭の中では、もっとも保存状態の良い城郭と考えられています。

デザインの説明

 1330年代に生じた北朝方と南朝方の争いの際、並木城直下の「並木のふけ」(現在の多古光湿原辺り、「ふけ」とは湿原・沼沢地をあらわす)において、「ふないくさ」が行われたと考えられる記録が残っています(「悟円書状」)。
 並木城の大きな役割として、栗山川、借当川等の水運の要衝にかかわる権利確保があり、そのための拠点城として、当時より並木城は機能していたのではないかと考えられます。
 御城印においては、並木城の復元鳥瞰図をモチーフとし、水運、水辺をイメージする青色を主体としてデザインを行うとともに、1330年代、北朝方として並木城と深い関係を有したと思われる千葉胤貞の家紋を配し構成しています。

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 松崎城(まつさきじょう)

 松崎城は多古町の東、常盤地区の東松崎に築かれました。日蓮宗寺院である勝栄山能満寺を中心とした、舌状台地全体に広がる城です。
 松崎城の周囲には栗山川の支流が流れていて、城があった当時は湿地に囲まれていたと考えられます。
 現在、台地の大部分は寺院や人家が広がり、かなり改変されているため城の構造は不明です。しかし、比高20mほどの台地は切り立ち、周囲には大きな土塁や曲輪、また虎口と思われる遺構が点在し、小丘に築かれた要害であることが見てとれます。
 地元では「物見塚」と呼んでいる高台もあり、見張りのための施設があったことが想像できます。
 城域の中心に建つ能満寺は、寺伝によると天文5 年(1536年)に日運上人が開いたといいます。日運上人は正木氏に連なる人物で、松崎城の歴史は不明ながらも、千葉一族の領地である多古に、里見氏、正木氏の勢力が入り、何らかの関係を持っていた経緯があったことが考えられ、水陸の要衝であった多古の中世における重要性が浮かび上がってきます。

デザインの説明

 日蓮宗勝栄山能満寺は日運寺(南房総市)と同山一寺で、日運寺を開いた日運上人が隠居寺として多古に創建したといい、江戸時代に日運寺から独立して能満寺となりました。また、能満寺は日蓮聖人の誕生した地に建てられた誕生寺(鴨川市)の隠居寺としての役目もあり、日蓮宗にとって重要なお寺でした。
 御城印には、松崎周辺の地図をデザインするとともに、松崎城の中心に位置する能満寺の貴重な鐘楼門(町指定有形文化財)をモチーフにしました。これは山門の上に鐘楼を乗せた珍しい造りで、天保9年(1838年)に村人たちによって建立された門です。松崎城が機能していた当時も能満寺、もしくは能満寺の建つ平場は城の一部として使われていたと思われます。
 あわせて、多古を所領としていた千葉氏の家紋「月星」と、能満寺に伝わる正木氏の家紋「三引き両」を配置しました。

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 分城(わけじょう)

分城

 分城は、中世には湖沼等低湿地帯が広がっていた栗山川流域を見下ろす舌状台地の先端に築かれました。 築城年代や城主は定かではありませんが、居館が 「窪(久保城)」にあったとされる千葉氏宗家当主千薬胤貞(1288年-1336年)が防衛拠点として分城を築いたとも伝わります。
 主郭と推測される方形の区画には、千葉氏の守護神である妙見神社が祀られており、その周囲には土塁や空堀、物見台が良好な形で残っています。妙見神社の社は、文政年間に今の場所に移されたといい、それまでは「一の屋敷」といわれる分城の東側周辺に置かれていたと地元では伝わっています。
主郭をめぐる士塁はほぼ一周しており、途中に張り出しが設けられていて、横矢が掛かる構造になっていますが、今に残る城の姿はいつの時代のものか定かではありません。
 南北朝時代、胤貞は北朝方につき、南朝方についた従弟の貞胤と戦いました。そのような中で、多古も戦いの舞台となり、その騒乱が下総国に広がっていきました。分城周辺でも戦闘行為が繰り広げられたのではないでしょうか。

デザインの説明

 分城は小城ながらも、 かつての広大な低湿地帯の名残りである栗山川を見下ろすことができ、水上交通の要衝だったことが見てとれます。これは、千田荘(下総国匝瑳郡・現在の多古町周辺)を領地にしていた千葉氏宗家当主胤貞が築いたとされる伝承にふさわしい眺めといえるでしょう。
 御城印には分城の城山の姿と、かつて麓近くまで迫っていたであろう湖沼をデザインしました。そして、千葉氏の家紋「月星」を配質し、分城の縄張図をモチーフにしましました。
 胤貞は日蓮宗に深く帰依しており、胤貞が創建した日本寺をはじめ日蓮宗の古刹が今でも多古には多く残っています。中世から変わることなく歴史が引き継がれている多古の実り豊かで美しい自然の残る風景を描きました。

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 東庄町

 須賀山城(すがやまじょう)

  須賀山城は中世には「香取の海」と呼ばれた広大な内海に面する台地の上に築かれました。標高50mほどの城山の周囲は、かつては低湿地に囲まれていたと思われ、天然の要害となっています。
 源頼朝の旗揚げの際、ともに戦って功を上げた千葉(東)胤頼が、東庄と三崎庄(旭市)を拝領しました。そして居館を築いたのが須賀山城の始まりと考えられており、代々、東氏の居城として利用されていきました。
 ちなみに胤頼は、三浦義澄とともに源頼朝に挙兵をすすめたとされる頼朝の側近中の側近です。
 その後、須賀山城が手狭になったためか、西側に森山城が築かれ、両城が一体をなしながら戦国の城へと改修整備されたと思われます。
 千葉氏が小田原北条氏に属すと、常陸の国境である須賀山城、森山城はさらに重要性が増し、須賀山城は森山城の「外郭部」としてさらに改修整備されていった思われ、城内には戦国期の遺構が良好に残っています。
 西麓の東氏の菩提寺である芳泰寺には、胤頼夫妻のものと伝わる墓が残っており、また、北東麓の東福寺は胤頼の父である千葉常胤ゆかりと伝わる薬師如来を本尊としています。
 さらに、この寺には天正6年(1578年)の千葉邦胤に関する古文書も伝わっており、戦国時代になってもこの地域と千葉一族の繋がりの強さがわかります。

デザインの説明

  御城印には、連携して機能していたであろう須賀山城と森山城の築かれた台地と、かつて北方に広がっていた「香取の海」をデザインしました。そして、千葉一族である東氏の家紋「九曜」を配置し、東常縁の絵図をモチーフにしました。
 常縁は、東氏のもう一つの所領であった美濃国の篠脇城主でした。享徳の乱の際に下総で千葉氏の内紛が起きると、室町幕府から東国に派遣され、森山城に入ったとされます。また、東氏は代々和歌の家柄で、特に常縁は古今伝授を行えるほど、当代きっての一流の歌人でした。東氏の祖である胤頼も和歌や文化に秀でていて、朝廷から昇殿を許される従五位下を賜っていました。
 なお、東庄町発行の須賀山城、沼闕城の両御城印は、日本のみならず海外でご活躍の英国王立美術協
会の名誉会員でもある岩井颯雪様にご揮毫いただきました。

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  • 東庄町役場:千葉県香取郡東庄町笹川い4713-131
    電話番号 0478-86-6075(東庄町観光協会事務局)
    営業時間 平日8時30分~17時15分
  • 東庄町観光会館:千葉県香取郡東庄町笹川い580-1
    電話番号 080-8757-4750/0478-86-6075
    開館時間 10時~12時、13時~15時 ※月・木休み

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 沼闕城(ぬまかけじょう)

 沼闕城は、「東庄県民の森」となっている比高20mの台地に築かれ、かつて存在した「椿の海」に向かってそびえ建っていたと思われます。大部分が公園化して原形が失われてしまっているものの、要害だった趣を十分に残しています。
 現在、補陀洛山福聚寺が建つ場所は、沼闕城の主郭だったと思われ、周囲には土塁、空堀、腰曲輪などの遺構が残ります。
 北方は「香取の海」に面し、陸奥に繋がる交通の要衝でもありました。
 源頼朝の鎌倉幕府設立に尽力した千葉(東)胤頼の三男盛胤が居館を築いたのが始まりとされ、その後も千葉氏の庶流である東氏が沼闕城主となりました。
 東氏は戦国時代には主家の千葉一族とともに小田原北条氏に属し、天正18 年(1590年)の小田原合戦で滅びたとされます。
 沼闕城はその地名から、別名「小南城」とも呼ばれ、この小南には徳川家康の関東入封の際、松平(久松)定勝が3000石で入部しました。定勝は家康の義弟で、伊予松山藩祖となる人物です。
 このことからも、沼闕城が築かれた小南の地の重要性がわかります。

デザインの説明

   沼闕城の南方にはかつて「椿の海」が広がっていました。椿の海は、海上(うなかみ)、香取、匝瑳(そうさ)の3 郡にわたり、東西10kmを超える大きな湖でした。
 寛文11年(1671年)に、鉄牛和尚が干拓事業を完成させました。それにより、18の村ができ、「干潟八万石」と呼ばれる一大穀倉地帯となりました。椿の海は、城下にある「八丁堰」として名残りをとどめています。
 その功績により、鉄牛和尚は寺地を幕府から寄進され、福聚寺を建て晩年を過ごしました。
 御城印には椿の海と、その椿の海に向かって張り出す沼闕城の台地をモチーフにしました。そして、
千葉一族である東氏の家紋「九曜」をデザインしました。
 なお、東庄町発行の須賀山城、沼闕城の両御城印は、日本のみならず海外でご活躍の英国王立美術協
会の名誉会員でもある岩井颯雪様にご揮毫いただきました。

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  • 東庄町役場:千葉県香取郡東庄町笹川い4713-131
    電話番号 0478-86-6075(東庄町観光協会事務局)
    営業時間 平日8時30分~17時15分
  • 東庄町観光会館:千葉県香取郡東庄町笹川い580-1
    電話番号 080-8757-4750/0478-86-6075
    開館時間 10時~12時、13時~15時 ※月・木休み

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旅して集めよう!千葉県の御城印!

ベイエリア

東葛飾エリア

北総エリア

九十九里エリア

南房総エリア

 

かずさ・臨海エリア

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ここに集めよう!千葉県の御城印帳

下総多古 御城印帳

  •  【販売場所】多古 道の駅あじさい館:多古町多古1069-1

館山城 御城印帳

  • 【販売場所】館山城館山市立博物館受付:館山市館山351-2 城山公園内

大多喜城 御城印帳

  • 【販売場所】大多喜町観光本陣:夷隅郡大多喜町大多喜270-1(いすみ鉄道大多喜駅前)
  • 【販売場所】大多喜城分館(千葉県立中央博物館):夷隅郡大多喜町大多喜481

猪鼻城 御城印帳

  •  【販売場所】いのはな亭:千葉市中央区亥鼻1-6(亥鼻公園内)

南房総市/南総里見八犬伝御城印帳

【販売場所】

 

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▽いくつかの千葉県「御城印」デザインを手掛ける「山城ガールむつみ」さん▽

  • 山城ガールむつみさんからのメッセージ

千葉県はたくさんの城跡があり、歴史の宝庫です。
千葉氏、里見氏に代表されるような、面白くドラマチックな歴史が満載です。
今ブームになっている「御城印」が地域の歴史や城を知り、大事に思うきっかけになれば嬉しいです。
これからもカッコよく素敵なデザインの御城印が続々と発行されますのでお楽しみに!