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更新日:2023年8月26日

北総エリア

 

 印西市

 師戸城(もろとじょう)

 師戸城は千菓県印西市にあり、印旛沼を臨む水上交通の要の城です。印旛沼に突き出た台地を利用して築かれました。印旛沼を挟んだ南方1.5kmの位置に臼井城があり、この両城は連携して機能したと考えられます。
 師戸城は鎌倉時代に千葉氏の系統である師戸四郎が築城したとも言われますが、築城年代や築城主は不明です。今に残る城の姿は、戦国期の軍事的緊張の中で築かれたものと推察でき、臼井城で合戦が行われた際は師戸城が駐屯や兵姑の役割を果たしたと思われます。
台地の北側の付け根には東側から谷が人り込み、その谷が長方形に整地されていることから、この辺りが居館跡、さらにその南側に城下や湊があったと考えられています。
鎌倉時代からの名族千葉氏がこの地を治め、一族の内紛などを経て、同族の原氏が居城とした可能性が高いです。
 臼井城は、徳川家康の関東移封に伴い酒井家次が慶長9年(1604年)まで在城し、まもなく、廃城になりました。それに伴い、師戸城も廃城になったと考えられています。

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 香取市

 小見川城(おみがわじょう)

 

 小見川城は香取の海に突き出した半島状の標高40mほどの台地の上に築かれました。現在、城跡は小見川城山公園になっていて、部分的ではあるものの、戦国期の土塁や空堀が良好に残ります。
 建久年間(1190年~1199年)に千葉一族である粟飯原朝秀によって築かれたという伝承がありますが、築城に関する詳細は不明です。現在残る遺構は戦国期のものであり、香取の海と直結する水運の要衝0)ため常に地域の要として機能していたと考えられ、代々、粟飯原氏が居城としました。
 永禄3年(1561年)上杉謙信(長尾景虎)の関東出陣に呼応し、正木時忠が下総国に侵出、小見川城 も攻撃を受けました。そのような戦国期の状況を経て、小田原北条氏がこの地域にも侵出してくると、 主筋の千葉氏とともに北条氏に属しました。
 天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原攻めの際には、当主俊胤は主君千葉重胤とともに小田原城へ駆けつけ豊臣軍と戦いました。しかし、小田原城は落ち、それとともに小見川城も落城しました。

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 小見川陣屋(おみがわじんや)

 小見川陣屋は現在の小見川中央小学校の地に築かれた小見川藩の陣屋です。南北175m、東西150mほどの規模で、その敷地は黒部川河畔まで広がっていました。
 徳川家康が関東に入ると、家康の家臣松平家忠が小見川に入封しましたが、家忠は関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで戦死しました。その後、土井利勝、安藤重信らが入るも、安藤氏の移封を受けて廃藩となりました。
 寛永16年(1639 年)に内田正信が下総国、常陸国で加増され大名になり、小見川藩主となりました。正信の死後、元禄元年(1688 年)に小見川陣屋が置かれました。当初、内田氏の居所は下野国鹿沼でしたが、享保9 年(1724 年)に小見川に移り、小見川藩が再立藩され、以後明治まで内田氏は一万石の大名として存続しました。
 小見川は香取の海に直結する水運の要衝のため、すでに鎌倉時代には千葉一族である粟飯原氏が領地としていたとも伝わっています。戦国時代になると、粟飯原氏が小見川城(現小見川城山公園)を築きますが、対抗勢力であった里見方の正木氏が下総国に侵出し、小見川城を攻撃。その際、正木方が小見川城攻めの陣城である橋向城を築いたのが後の小見川陣屋の地にあたります。

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 下小川城(しもおがわじょう)

下小川城

 下小川城の詳細は不明ですが、小見川城主粟飯原氏の重臣成毛宗親の城と伝わります。現在、東光院血当寺が建っている場所が下小川城とされ、周辺には「堀之内」、「蔵屋敷」などの地名が残っており、周りを水田に囲まれた微高地となっています。
 下小川城の北方約3kmには千葉一族粟飯原氏の小見川城があり、里見氏の侵攻を防ぐために、急遽、従前の寺院を改修して小見川城を守るために城郭として整えたと考えられています。
 永禄3 年(15 6 0 年)の上杉謙信(長尾景虎)の関東出陣に呼応し、里見軍の将である正木時忠が下総国に侵攻しました。正木氏は「橋向城」と呼ばれる陣城を現在の小見川中央小学校の場所に築き、小見川城を攻撃し、永禄9 年(1566 年)まで在城したと伝わります。その際に小見川城を守るため、里見軍の橋向城に対峙するように築かれたのが別名「川向城」と呼ばれる下小川城と考えられています。
 血当寺は里見軍撤退後の永禄10年(15 6 7年)に、城としての役目を終えた下小川城の跡地に成毛宗正が父宗親のために創建したと伝わります。

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 森山城(もりやまじょう)

 森山城は中世には「香取の海」と呼ばれた広大な内海に面する台地の上に位質します。標高50mほどで、西側と南側は低湿地の水田となっている天然の要害を利用して築かれた戦国時代の城郭です。
このあたりの地域は、鎌倉時代から千葉一族「東(とう)氏」の本拠地で、森山城の東側に隣接している須賀山城(東庄町)は東氏が築いた城と伝わります。
 東氏が美濃国(現在の岐阜県郡上八幡市)に移ると、この地は東氏の庶流である海上(うなかみ)氏の統治となりました。千葉宗家当主昌胤の子の胤富は、当初、海上氏の養子に人り森山城の城主となりました。しかし、兄の親胤が家臣に殺されると、本家に戻って当主の座を鏃ぎ、本佐倉城(酒々井町) に移りました。胤富は本佐倉城に行った後も、常陸国との境に当たり、千葉氏領国の北境の城である森山城を重要視し、一族の有力者を森山城の城主に据え拡張整備しました。
 千葉氏は小田原北条氏に属しており、豊臣秀吉による天正18年(1590年)の小田原攻めの際には、当主重胤が小田原 城で戦うも落城。それにより、森山城も戦国時代の城としての役目を終えたと思われます。

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 神崎町

 神崎城(こうざきじょう)

  

 神崎(こうざき)城はかつての香取の海、現在の利根川に突き出た丘陵に築かれました。神崎城は「東の城」、「中の城」、「西の城」の3城から成っており、この3城を総じて「神崎城」と称します。
 神崎城は千葉氏隆盛の祖である千葉常胤の曾孫にあたる神崎師時が鎌倉時代中期に築城したと伝わりますが、現在の遺構は戦国時代末期のものと推察されます。
 城域は丘陵全体に広がり、その規模は南北約2キロメートル、東西約500メートルに及びます。そして、丘陵上に連なるように東の城、中の城、西の城を設け、さらには周囲に田向城、小松城を築き、それらすべてが連携する構造となっています。このように配置された防衛網は、神崎周辺の湊に対する重厚な監視機能と富の利得の機能をも有していたと考えられ、これらの湊からの富こそが歴代の神崎氏繁栄の一翼を担っていたものと推察されます。
 神崎氏は途中の中絶はあるものの、師時以来、神崎地域の領主として君臨し、戦国時代には千葉氏を介して小田原北条氏に属しました。天正18年(1590年)の小田原合戦の際は、小田原城に入城し、豊臣方との戦いにのぞみましたが小田原北条氏の敗退にともない、神崎城も開城落城しました。まさに神崎城をはじめとする城郭群こそが、中世を通して神崎を領した神崎氏の繁栄の証といえます。

  • 西の城(にしのじょう) 

 中の城はその名の通り、東の城、中の城、西の城の3城の真ん中に位置します。南側は急崖となっていて、神崎神社別当寺の神宮寺の境内地に繋がっています。
 東西約130メートル、南北約110メートルの方形の区画が形成され、北側には古墳を利用した物見台と、そこから伸びる土塁が良好に残っています。

  • 中の城(なかのじょう) 

中の城はその名の通り、東の城、中の城、西の城の3城の真ん中に位置します。南側は急崖となっていて、神崎神社別当寺の神宮寺の境内地に繋がっています。
 東西約130メートル、南北約110メートルの方形の区画が形成され、北側には古墳を利用した物見台と、そこから伸びる土塁が良好に残っています。

  • 東の城(ひがしのじょう) 

 東の城は最北端に当たる城であり、東の城、中の城、西の城の3城の中では、もっとも古いものと推定されています。神崎師時が最初に築城した場所ではないかとも伝わります。
 城郭遺構としては、土塁、空堀が残るとともに、楕円形状を呈する狭い一郭と長径約110メートル、短径約50メートルに及ぶ方形の二郭に分かれています。

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 佐倉市

 臼井城(うすいじょう)

 臼井城は臼井氏により城の基礎が作られたといわれるお城ですが、その歴史において、戦国期の関東における重要な攻防戦の舞台に複数回なったお城です。
関東の戦国期の幕開けとなる享徳の乱においては、文明11 年(1479年)武蔵千葉氏に対抗して、佐倉千葉氏が7か月間籠城したと言われています。
 この籠城戦は佐倉千葉氏側の敗北に終わりますが、攻城に際して太田道灌の弟(甥という説もあり)の太田資忠が討死を遂げ、現在も土塁上にその墓が残されています。
 また、後世の軍記物では、永禄9年(1566年)に、上杉謙信、里見義弘の連合軍に攻められます。この時城主は原胤貞でありましたが、城は落城寸前となります。
 しかし、胤貞の奮闘、軍師白井浄三の知謀、助勢に駆け付けた北条方の松田康郷らの働きにより、謙信が大敗する戦いとなり、後世、無敗とも言われた謙信の最大の汚点の戦いと言われています。
 このように戦国期においては重要な攻防戦の舞台となったお城でしたが、小田原の役(1590年)以降、徳川家康の関東入封に伴い、酒井家次が城主となりますが、近隣の佐倉城の整備が進んだこともあり、家次の高崎移封に伴い慶長9年(1604年)に廃城となりました。

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  • 佐倉市観光協会:佐倉市栄町8-7/TEL 043-486-6000

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 謙信一夜城(けんしんいちやじょう)

謙信一夜城

 千葉県佐倉市王子台の台地に築かれた謙信一夜城は、上杉謙信が臼井城攻めの際に築いた陣城と伝わります。今は公園となっていますが、北方に臼井城を望む高台に位置します。

 群雄割拠の戦国時代、武田信玄、北条氏康、上杉謙信という勢力が争う中で、謙信も度々関東に進軍しました。

 永禄8年(1565年)の関東遠征の際には、北条氏の圧迫を受けていた里見氏も上杉軍に加わり北条氏に対抗しました。上杉軍は常陸国小田城などを攻め、永禄9年(1566年)には、臼井城を攻め寄せました。史料によると、臼井城の「実城堀一重」まで上杉軍が攻め寄せたものの、北条氏は以下の原胤貞がこれを撃退したとされます。これにより上杉軍は撤退を余儀なくされ、謙信の関東への直接介入は不可能となりました。

 開発に伴う発掘調査によると、城内の曲輪は100m×70mの方形で、周囲には空堀をめぐらせ、南西には虎口、土橋が架けられていたといいます。南東には食い違いの堀があり、ここにも虎口があった可能性が高いと考えられています。

 調査では中世の遺物は検出されず、城郭遺構を見ても最小限の土木工事と推測される点から、臨時的な用途が推測でき、伝承通りに上杉謙信の臼井城攻めの陣城という可能性も十分に考えられ、遺構は何も残らずとも貴重な史跡と言えます。

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 小篠塚城(こしのづかじょう)

 小篠塚城は、印旛沼への最大流入河川である鹿島川に面した半島状の台地先端に築かれました。一部、発掘調査が行われていて、古墳時代の住居跡も検出されています。
 小篠塚城の築城年代などの詳細は不明ですが、16世紀中頃から末頃と考えられる遺構が良好に残っています。現在は正慧寺(しょうけいじ)とその塔頭安養院が城内に建っています。
 平安時代から鎌倉時代の初めには、小篠塚城の周辺は印東氏の領地でした。その後は、千葉氏の領地になり、15世紀前半には平河氏と宍倉氏が知行していたことがわかっています。
 享徳3年(1454年)に鎌倉公方足利成氏が関東管領の上杉憲忠を謀殺。これにより、享徳の乱が起きました。
 転戦中に本拠地鎌倉を占拠された成氏は鎌倉に入ることができず、古河城に入り、以後、古河公方と呼ばれるようになりました。享徳の乱の終結後も動乱が続き、文亀2 年(1502年)から永正元年(1504年)までの間、成氏の跡を継いで2代古河公方となった政氏とその子である高基が小篠塚城に動座しました。動座した理由は定かではありませんが、その頃、政氏と千葉孝胤(のりたね)は関係が悪化していたともいわれていて、小篠塚城は当時の状況を考える鍵になる重要な城といえます。

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 佐倉城(さくらじょう)

 戦国時代、佐倉千葉氏により、築城が開始されましたが、江戸期に入り、石垣を用いない近世城郭として完成しました。
 佐倉城の城主は、江戸幕府の要職に就くことが多く、長く、城主となった堀田家は、江戸期の幕政を長きにわたり支えた幕府内の重要な家柄でした。
 現在、城址には多くの郭や堀の形状が良好に残るとともに、国立歴史民俗博物館建設の際の発掘整備により、空堀と土塁を復元して馬出を再現しています。
 佐倉市の指定史跡であるとともに、日本100名城にも選定されている日本を代表する城郭の一つとなっています。

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  • 佐倉市観光協会:佐倉市栄町8-7/TEL 043-486-6000

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 宿内砦(しゅくないとりで)

宿内砦

 宿内砦は臼井城(千葉県佐倉市臼井)を守る支城として、臼井大地の東南外縁部に築かれました。ほかにも稲荷台砦、洲崎砦、仲台砦、手久里(たぐり)砦が存在し、これらの支城群で臼井城外郭の守りを固めていたと考えられています。5つとも1辺が100mを超える規模だったとされ、臼井城の台地を守るよう見事に配置されていました。このうち宿内砦は唯一、堀、土塁、虎口などの城郭遺構が良好に残っています。

 臼井城は下総の重要な軍事拠点であり、文明11年(1497年)太田道灌、永禄9年(1566年)に上杉謙信に攻められるなど、大きな合戦が繰り広げられました。その過程の中で、宿内砦をはじめとする支城群が整備されていったと考えられています。

 宿内砦は、開発による破壊の危機にさらされましたが、地元の方々らの保存運動により、現在も戦国期の素晴らし遺構を見ることができます。

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 本佐倉城(もとさくらじょう):新バージョン

 下総守護千葉氏が文明年間(1469~1486)に築城し天正18年(1590)に滅亡するまでの約100年間、当主9代が居城した戦国時代の城です。水上交通の大動脈であった印旛浦に面し、主要街道が交差する陸上交通の要衝の地に築かれました。
 面積約35万平方メートルの規模を誇る本佐倉城は10の郭から構成され、防御性の高い内郭群と広大な外郭群にわけられ、さらにその周囲には城下町が形成されました。
 すべて土の造成によって構築された大規模な外堀や土塁、穭台に守られた郭群や虎口は現在も明瞭に姿をとどめ戦国時代の城と迫力と息吹を感じさせます。
 平成10年9月11日の貴重な文化財として国史跡に指定されました。

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 本佐倉城(もとさくらじょう):旧バージョン

 下総守護千葉氏が文明年間(1469~1486)に築城し天正18年(1590)に滅亡するまでの約100年間、当主9代が居城した戦国時代の城です。水上交通の大動脈であった印旛浦に面し、主要街道が交差する陸上交通の要衝の地に築かれました。面積約35万平方メートルの規模を誇る本佐倉城は10の郭から構成され、防御性の高い内郭群と広大な外郭群にわけられ、さらにその周囲には城下町が形成されました。すべて土の造成によって構築された大規模な外堀や土塁、穭台に守られた郭群や虎口は現在も明瞭に姿をとどめ戦国時代の城と迫力と息吹を感じさせます。平成10年9月11日の貴重な文化財として国史跡に指定されました。

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  • 佐倉市観光協会:佐倉市栄町8-7/TEL 043-486-6000
  • ふるさと広場売店「佐蘭花」:佐倉市臼井田2714/TEL 043-486-6000

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 多古町

 大島砦

大島砦

 大島砦は標高32mの丸山及びそこに繋がる北西側台地の基部に築かれました。現在、丸山の山頂には熊野神社が鎮座しています。城郭遺構は確認できないものの、東側先端には人工的な平場があり、栗山川を見下ろす位置に当たることから、櫓台の可能性も考えられます。
 大島砦の詳細は不明ですが、千葉胤貞による築城とも伝わっています。平安末期から、多古は「千田荘」という荘園の中心地で平家一門の藤原親政(ふじわらのちかまさ)の領地を経て千葉氏の領地となります。千葉氏は源頼朝に助力し、鎌倉幕府の成立に大きく貢献、そして勢力を拡大していきました。
 しかし、鎌倉幕府が滅亡すると、千葉一族も足利尊氏派(北朝)と後醍醐天皇派(南朝)に別れて戦いました。「千田殿」と呼ばれ、千田荘を本拠とした千葉胤貞は尊氏派に、胤貞の従兄弟の貞胤は後醍醐天皇派につき、一族は対立して戦うことになったのです。
 多古は争乱の舞台となり、鎌倉時代から南北朝時代にかけて多くの城が築かれました。そのような状況の中で、大島砦も築かれたと考えられます。
 大島砦の北方わずか1. 5kmには、志摩城が築かれた「島」があります。島は中世期割符(さいふ)取引(為替取引)が当時の金沢称名寺領であった茨城県久慈との間で行われていたことが、文献上も明らかとなっている全国的にも珍しい場所であり、中世期の商業的繁栄が推測される場所です。享徳の乱に端を発した千葉一族のお家騒動の際は、このように重要であった志摩城に千葉宗家当主胤直が籠城しました。そしてその後、志摩城城内にあったと思われる妙光寺(現正覚寺)にて自刃したとされています。
 千葉氏にとって志摩城は重要な城であり、その志摩城の前面の防衛の役目を担っていたのが大島砦であるとともに、栗山川を中心とする水運の監視所として、重要視されたことが推察できます。

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 久保城(くぼじょう)

 久保城は、千葉氏宗家当主千葉胤貞(1288年-1336年)が居館として築いたものと伝わります。多古の中心ともいえる中村に創建された古刹日本寺の古文書にも、胤貞の居館は「久保(窪)」にあったと記されています。久保城は土地の伝承と古文書からも、千田殿」と呼ばれていた胤貞の存在を裏付ける重要な城といえます。
 同じく中村の分城や中城は、久保城を守る防衛拠点として胤貞が築いたとされています。
平安末期から、多古は「千田荘」という荘園の中心地で千葉氏の領地でした。千葉氏は源頼朝に助力し、鎌倉幕府の成立に大きく貢献、そして勢力を拡大していきました。
 しかし、鎌倉幕府が滅亡すると、千葉一族も足利尊氏派と後醍醐天皇派に別れて戦いました。胤貞は尊氏派につき、後醍醐天皇派についた従弟の貞胤と争いました。そのような中で多古も戦の舞台となり、多くの城が築かれました。
 戦国期に入り、また戦乱の舞台となった多古の城は整備拡張されて使われていたと思われます。久保城周辺には土塁や空堀などの遺構が残っています。

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 志摩城(しまじょう)

 志摩城は享徳の乱の際、千葉胤直が籠り、子息の宣胤が籠った多古城ともども、馬加康胤、原胤房らによって攻められ、千葉宗家が滅びる現場となった歴史上重要な戦国・中世城郭です。
 現在、城跡には、塙台、二ノ台と言われる東西2つの郭や、この2 つの郭に挟まれた舟着場と見られる場所、枡型虎口等の遺構が良好に残っています。

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 多古城(たこじょう)

 多古台バスターミナルの東側の台地に占地する城跡です。
 築城年代については、明確ではありませんが、1455年享徳の乱の際中に、千葉宗家の若武者千葉宣胤が籠り奮戦したお城です。
 また戦国期には、現在多古町内の親社大神に祀られる牛尾胤仲が城主となり、多古の治世を行ったお城でもあります。

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 多古藩陣屋(たこはんじんや)

 多古藩陣屋は、 現在の多古第一小学校周辺の小高い場所に築かれました。
多古は、古くから名族千葉一族ゆかりの地で、享徳の乱に端を発した一族の内紛で千葉市宗家が多古で滅ぶなど、中世を通して下総国内で重要な地でした。
 天正18年(1590年)に小田原北条氏が豊臣秀吉に攻められ、戦国大名として滅亡すると、徳川家康が関東に入封しました。そして、多古には家康家臣の信濃高遠城主保科正光が入りましたが、関ヶ原の戦い(1600年)後に正光は加増され高遠藩に移ったため、多古藩は一時廃藩となりました。
 寛永12年(1635年)に8千石の旗本松平(久松)勝義が、上総国武射郡と下総国香取郡に所領をもらい、多古に陣屋を構えます。 これが多古藩陣屋のはじまりです。そして、延宝8年(1680年)に家督を継いだ勝義の九男勝以(かつゆき)は加増を受け、1万2千石の大名となり、多古藩が再び立藩されました。以後、久松松平氏が多古藩領主として存続し明治に至ります。
 当時、陣屋の敷地は板塀や石垣で囲われていましたが、現在は多古第一小学校の校庭となり、陣屋前面の石垣の一部がわずかに残るだけです。しかしながら、全国的に石垣が築かれた陣屋は珍しく、このことからも多古藩1万2千石の威光が想像でき、この陣屋が多古藩の政治の中心地であった往時が偲ばれます。

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 玉造城(たまつくりじょう)

 玉造城は栗山川東岸に位置し、その支流常磐川との合流域を北に望む樹枝状台地の先端に築かれています。小丘ながらも三方を急峻な崖に囲まれた天然の要害となっています。郭、腰曲輪、空堀、土塁などの遺構が残っており、現在残る南北二つの郭から、直線的に連なる連郭式城郭の姿が推測できます。北側の郭には土塁が良好に残り、南西隅には八幡神社が祀られています。八幡神社の高まりは櫓台と思われ、南側郭との間の空堀と合わせて、守りを固めているのが見てとれます。
 この城の築城者等詳細は不明ですが、弘安年間(1278 年~ 1287 年)に野平伊賀守常弘が城主であったと伝わり、南北朝期においては、千葉胤貞による日本寺防衛のための北側の要塞として整備された可能性も指摘されています。
 天正16年(1588年)に城主だった野平常義は城を明け渡し僧になったとも伝わりますが、戦国期に野平氏は小田原北条氏方に属していたとされ、城跡には天正18 年4月没の常義の墓碑も残っています。そして、同年の小田原合戦で北条氏が豊臣方に敗北すると、玉造城も開城となりました。

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 次浦城(つぎうらじょう)

  次浦城は、栗山川の支流である沼田川沿いの台地上に築かれました。現在、この台地上には、次浦の集落が広がっています。標高は約30mほどで、周囲には自然地形を人工的に加工した形跡が見てとれ、北側は切り立った崖となっています。
 この台地の北西側一郭には、土塁と空堀で囲まれた方形の区画が残っています。この辺りは地名(字名)を「城山」といい主郭と思われますが、城域全体が集落と重なっているため、その他の城郭構造は不明です。しかし、周辺には城郭に関連する「馬場小屋」「内小屋」「土橋」「馬場道」などの字名が残り当時を偲ばせます。
 築城年代や城主は不明ですが、次浦八郎常盛の居城だったとも伝わり、この人物は千葉常兼の弟、粟
飯原五郎家常の4 男であることから、千葉一族との関連が指摘されます。
 多古は「千田荘」とよばれる荘園で、千葉一族の支配地でした。千葉宗家当主の胤貞は「千田殿」と呼ばれていて、千葉宗家と多古が密接に関係することがわかっています。鎌倉幕府滅亡後に多古の土橋城周辺で起きた「土橋合戦」には次浦氏も関わっていて、この次浦城を拠点に戦いに臨んだと思われます。また、次浦氏は土橋城下にある東禅寺の大旦那だったことも金沢文庫古文書からわかっています。
 その後もたびたび多古が戦いの場になると、次浦城も城郭として拡張整備されていったと考えられます。

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 次浦八郎常盛館(つぎうらはちろうつねもりやかた)

次浦八郎常盛館御城印

次浦八郎常盛館と呼ばれる城館は、次浦集落から西に外れた次浦字大峰の杉林の中にあったとされます。周囲の地形を削り出して館を造営したと思われ、現地には雛壇状の平場が残っています。
 『神代本千葉系図』によると、次浦八郎常盛は千葉常兼の弟粟飯原五郎家常の四男とされますが生没年等の詳細は不明です。常盛は源義家に従い、後三年の役に出陣し武功を挙げたといいます。
 次浦集落の北側には次浦城とよばれる土塁と空堀に囲まれた方形の城館があり、現地に遺る形態から戦国時代の城館と推察されています。そのため、次浦氏の早い段階の居館がここ次浦八郎常盛館で、その後、いずれかの時期に次浦城を築いて居館を移したとも推測されています。

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 土橋城(つちはしじょう)

 土橋城は、栗山川西岸沿いの南北に伸びた台地先端に築かれています。この地は水陸交通の要衝で、栗山川という水運の幹線と、城下を走る佐原への街道(多古街道)という陸上の幹線を押さえるための場所だったと考えられています。
 隣り合う谷筋にあり、土橋城とも深い関係をもっていた土橋山東禅寺は、鎌倉幕府以来の名刹である金沢山称名寺(横浜市)と繋がりが深く、中世において房総半島でも中心的な寺院でした。土橋城はその東禅寺の出入り口をも見張る役目も担っていました。
 南北朝時代に千葉氏は一族で分裂し、南朝方の千葉貞胤と北朝方の千葉(千田)胤貞が従兄弟どうしでありながら争うことになりました。この南北朝の争乱では「土橋合戦」といわれる戦いが土橋城で繰り広げられたことが「金沢文庫文書」に残ります。
 その後も「享徳の乱」に端を発した千葉宗家滅亡の戦いにも土橋城は関連したと思われ、まさに交通、政治、経済等の最重要地だったのです。

 現在、 土橋城の南側、栗山川を見下ろす台地南端の高まりに、千葉氏の信仰である妙見様が祀られていますが、その高まりは水陸の街道を見張る物見台だったと考えられています。遺構としては薬研の堀や、その堀と食い違いに掘られた堀も確認されており、南北朝の争乱から戦国期へと時代が進む中で堅固な城へと改変されていった土橋城の姿が想像できます。

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 土やぐら城(つちやぐらじょう)

土やぐら城

 土やぐら城は多古町の南東部、中村地区の借当川流域を臨む台地の先端に築かれました。この台地の中央を走る「中城坂」を挟んで、北西300メートルほどの位賀には物見台城(物見台跡)があり、中村中央の台地へと続くこの坂を物見台城と連携し、監視していたと思われます。土やぐら城の構造は判然としませんが、物見台城と一体となって機能することで効力を発揮したのでしょう。櫓台、士塁が今も現地に残り、かつては堀がめぐっていたとも伝わります。
 この二つの城が築かれた台地の西側は、中村中央の台地に向かって谷(相ノ谷)が深く切れ込んでいます。さらに南から東にかけては借当川とその支流の平野部に接しています。土やぐら城は、この周辺地域の水運掌握のための監視所的な役割を担わされていたと推察できます。
 借当川の上流部は、かつての椿海に通じ多古周辺地域の水運の要衝であり、香取地方へと繋がる街道も存在したことから、借当川流域が水陸交通の要衝だったことがわかります。治承4年(1180年)の源頼朝旗揚げの際、房総半島から立て直しを図る頼朝側に対し、平家方として戦いを挑んだ藤原(千田)親政の居館も借当川上流にあったとされ、この流域は古代より開けた重要な地域だったのです。

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 中城(なかじょう)

 中城は多古町南東部の中村地区に位置し、中村小学校の東方、借当川に開けた谷津に突き出た舌状台地に築かれました。周辺の台地は、「中村の台地」とも呼ばれ、鎌倉時代や南北朝時代に開山された古刹正東山日本寺や正峰山妙興寺、竹林山妙光寺などがあり、まさに多古の中心地ともいえます。
 千葉氏宗家当主だった千葉胤貞(1288年-1336年)がこの台地上に「中城」という城を築いたとも伝わりますが詳細は定かではありません。「中城」いう地名は、谷を隔てた諏訪神社側の台地上にも残っていて、台地全体を広義の意味での「中城」とする考えもあります。いずれにしろ、中村の台地全体が要衝地であり、戦国期に改修整備が施され、重要な防衛拠点として使われたと考えられます。

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 並木城(なみきじょう)

 

 並木城は、多古町南並木地区の台地の南端に占地する戦国・中世城郭であり、記録等によれば1330年代から戦国期末まで城郭として利用されていました。
 現在城跡には、南側に土塁と空堀で囲まれた部分があり、主郭と考えられています。主郭の北側の折れを伴った土塁と空堀の二重構造、南東側の巨大な二重の枡形虎口、南側の帯曲輪等の遺構は特に秀逸であり、多古町内にある戦国・中世城郭の中では、もっとも保存状態の良い城郭と考えられています。

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 松崎城(まつさきじょう)

 松崎城は多古町の東、常盤地区の東松崎に築かれました。日蓮宗寺院である勝栄山能満寺を中心とした、舌状台地全体に広がる城です。
 松崎城の周囲には栗山川の支流が流れていて、城があった当時は湿地に囲まれていたと考えられます。
 現在、台地の大部分は寺院や人家が広がり、かなり改変されているため城の構造は不明です。しかし、比高20mほどの台地は切り立ち、周囲には大きな土塁や曲輪、また虎口と思われる遺構が点在し、小丘に築かれた要害であることが見てとれます。
 地元では「物見塚」と呼んでいる高台もあり、見張りのための施設があったことが想像できます。
 城域の中心に建つ能満寺は、寺伝によると天文5 年(1536年)に日運上人が開いたといいます。日運上人は正木氏に連なる人物で、松崎城の歴史は不明ながらも、千葉一族の領地である多古に、里見氏、正木氏の勢力が入り、何らかの関係を持っていた経緯があったことが考えられ、水陸の要衝であった多古の中世における重要性が浮かび上がってきます。

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 物見台城(ものみだいじょう)

物見台城

 物見台城は、多古町の南東部、南中「鴻巣集落」周辺の台地に築かれ、その台地が広範囲にわたり城郭化されたと考えられます。物見台城の西側には「相ノ谷(あいのやつ)」を挟んで中城があります。この相ノ谷は中村中央の台地に深く切れ込んだ重要な谷戸のため、物見台城と中城で相ノ谷を挟み、連携しながら監視を行っていたと考えられます。また、物見台城の東側には「中城坂」を挟んで土やぐら城があります。この坂道は、中村中央の台地へと通じる重要な街道であったと思われ、物見台城と土やぐら城が連携して監視を行っていたと推測できます。
 南側を流れる借当川は、中世において多古・匝瑳地域の重要な水上交通路であったと考えられ、この借当川を疸接眼下に監視できる場所に物見台城は位霞しています。 これらのことからも、築城年代や城主等の詳細は不明ながら、戦国期においては、この物見台城こそが中村中央の台地の南側を防衛・監視する中心的な城郭であったことが推察されます。
 物見台城は、現在山林や畑になっていて、当時の全体像は不明ですが、「諏訪神社」周辺には土塁、空堀、桝形虎口等が残り、台地南西側には土塁、腰曲輪、物見台等が残っています。物見台の周囲には城郭遺構が良好に残っていて、特に長さ約100mに及ぶ土塁と帯曲輪は秀逸で、中世山城の姿を今に伝える貴重な城郭といえます。

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 分城(わけじょう)

分城

 分城は、中世には湖沼等低湿地帯が広がっていた栗山川流域を見下ろす舌状台地の先端に築かれました。 築城年代や城主は定かではありませんが、居館が 「窪(久保城)」にあったとされる千葉氏宗家当主千薬胤貞(1288年-1336年)が防衛拠点として分城を築いたとも伝わります。
 主郭と推測される方形の区画には、千葉氏の守護神である妙見神社が祀られており、その周囲には土塁や空堀、物見台が良好な形で残っています。妙見神社の社は、文政年間に今の場所に移されたといい、それまでは「一の屋敷」といわれる分城の東側周辺に置かれていたと地元では伝わっています。
主郭をめぐる士塁はほぼ一周しており、途中に張り出しが設けられていて、横矢が掛かる構造になっていますが、今に残る城の姿はいつの時代のものか定かではありません。
 南北朝時代、胤貞は北朝方につき、南朝方についた従弟の貞胤と戦いました。そのような中で、多古も戦いの舞台となり、その騒乱が下総国に広がっていきました。分城周辺でも戦闘行為が繰り広げられたのではないでしょうか。

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 銚子市 

 飯沼陣屋(いいぬまじんや)

飯沼陣屋

   飯沼陣屋は下総国海上郡飯沼村(現在の銚子市陣屋町)に置かれた上野国高崎藩の陣屋です。現在の陣屋公園一帯に相当します。
 海上郡周辺は、中世には香取の海が広がる水運の要衝地でした。平安時代から戦国時代にかけては、千葉一族である海上氏が領地としていました。海上氏は銚子周辺に中島城などの城を築き、円福寺などの寺院も保護し、勢力を拡大していきました。
 しかし、海上氏が小田原北条氏とともに没落すると、徳川家康配下の松平(五井)伊昌(これまさ) が下総国に入封、海上郡内4000 石を加増され、銚子に陣屋を築いたとされます。五井松平氏の陣屋の場所は定かではありませんが、後の高崎藩銚子陣屋と同じ場所だった可能性も指摘されています。陣屋は、五井松平氏の遠江国移封により、廃されました。
 そして、その後、高崎藩の出張陣屋として築かれたのが飯沼陣屋です。松平(大河内)輝貞が享保2 年(1717年)に高崎に入った際、海上郡の7 村を与えられ、陣屋を築いたとされます。以来、明治まで高崎藩の出張陣屋として存続しました。
 陣屋周辺には水堀がめぐらされ、長方形の区画に長屋門、役所などが配置されていたといいます。

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 中島城(なかじまじょう)

 

  中島城は利根川に面する標高40mほどの台地に築かれ、東西約500m、南北約400mを城域とする大規模城郭です。中世には香取の海に面する水運の要衝地にあたり、千葉一族海上氏の居城と考えられていて、戦国期には千葉氏の下総統治の拠点のひとつだったと思われます。
 周辺に残る海上氏ゆかりの寺院には、鎌倉期の仏像が安置されており、また、周辺からは鎌倉時代の経筒も出土しています。これらのことからも、すでに鎌倉期には海上氏がこの地域を本拠地にしていたと考えられていますが、折れを伴う空堀などの遺構から、現在の形態は戦国期の城郭であると思われます。空堀の一部には湿地となっている箇所もあり、中世城郭には珍しい台地上の帯曲輪部分に水堀の存在が指摘される貴重な城です。
 海上氏は平安期に両総平氏の常衡、常幹父子を祖として歴史舞台に登場しましたが、まもなく衰退しました。鎌倉時代になると、源頼朝の幕府樹立に貢献した千葉常胤の子、胤頼から始まる東氏の庶流が海上庄を領して、海上氏を名乗りました。そして、室町期には鎌倉公方の奉公衆となり、勢力を拡大していきました。
 戦国期になると、千葉宗家当主昌胤の庶子だった胤富が婿として海上氏を継ぎ、森山城(香取市)に入りました。その後、胤富が千葉宗家に戻り、当主として本佐倉城に入りましたが、胤富との関係からその後も中島城や森山城は整備拡張されたと考えられます。
 城内の堀跡付近と思われる箇所から大量の石塔が出土しており、詳細は不明ながらも、永禄年間には正木氏による下総侵攻、そして天正18 年には千葉氏が属していた北条氏の小田原城が落城するなどの流れの中で中島城も落城し、破城された可能性もあると考えられています。

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  • 銚子観光案内所:銚子市西芝町1438(JR銚子駅構内)
    電話番号:0479-22-1544/FAX:0479-25-4000
    営業時間:8時45分~17時00分 年中無休 ※専用駐車場無

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  東庄町

 大友城(おおともじょう)

大友城御城印

 大友城は椿の海の最北端に位置する半島状に突き出た標高約50mの舌状台地に築かれました。城域は東西約100m、南北約300mに及ぶとされ、「政所台」「遠所台」という字名が残っています。政所台は二の丸、遠所台は主郭にあたるとされていて、地形を活かした連郭式の構造になっています。
 大友城は、古くは長元元年(1028 年)に朝廷に対する反乱(平忠常の乱)を起こした平忠常の館跡とも伝わっていますが、今に残る遺構は戦国時代のものと思われます。
 このように築城についての詳細は不明ですが、立地的に考えると、東氏や海上氏など千葉一族に関連する城館だと推察されます。
 城域の大部分は畑になっているものの、わずかながらも土塁、空堀、腰曲輪などが残っています。字名として「鍛冶屋敷」「旗口」「兵岬」など、城と関連が想像される地名も残っています。

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  • 東庄町役場:千葉県香取郡東庄町笹川い4713-131
    電話番号 0478-86-6075(東庄町観光協会事務局)
    営業時間 平日8時30分~17時15分
  • 東庄町観光会館:千葉県香取郡東庄町笹川い580-1
    電話番号 080-8757-4750/0478-86-6075
    開館時間 10時~12時、13時~15時 ※月・木休み
  • まるごとしすい(外部サイトへリンク):酒々井町飯積二丁目8番2

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 須賀山城(すがやまじょう)

  須賀山城は中世には「香取の海」と呼ばれた広大な内海に面する台地の上に築かれました。標高50mほどの城山の周囲は、かつては低湿地に囲まれていたと思われ、天然の要害となっています。
 源頼朝の旗揚げの際、ともに戦って功を上げた千葉(東)胤頼が、東庄と三崎庄(旭市)を拝領しました。そして居館を築いたのが須賀山城の始まりと考えられており、代々、東氏の居城として利用されていきました。
 ちなみに胤頼は、三浦義澄とともに源頼朝に挙兵をすすめたとされる頼朝の側近中の側近です。
 その後、須賀山城が手狭になったためか、西側に森山城が築かれ、両城が一体をなしながら戦国の城へと改修整備されたと思われます。
 千葉氏が小田原北条氏に属すと、常陸の国境である須賀山城、森山城はさらに重要性が増し、須賀山城は森山城の「外郭部」としてさらに改修整備されていった思われ、城内には戦国期の遺構が良好に残っています。
 西麓の東氏の菩提寺である芳泰寺には、胤頼夫妻のものと伝わる墓が残っており、また、北東麓の東福寺は胤頼の父である千葉常胤ゆかりと伝わる薬師如来を本尊としています。
 さらに、この寺には天正6年(1578年)の千葉邦胤に関する古文書も伝わっており、戦国時代になってもこの地域と千葉一族の繋がりの強さがわかります。

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 沼闕城(ぬまかけじょう)

 沼闕城は、「東庄県民の森」となっている比高20mの台地に築かれ、かつて存在した「椿の海」に向かってそびえ建っていたと思われます。大部分が公園化して原形が失われてしまっているものの、要害だった趣を十分に残しています。
 現在、補陀洛山福聚寺が建つ場所は、沼闕城の主郭だったと思われ、周囲には土塁、空堀、腰曲輪などの遺構が残ります。
 北方は「香取の海」に面し、陸奥に繋がる交通の要衝でもありました。
 源頼朝の鎌倉幕府設立に尽力した千葉(東)胤頼の三男盛胤が居館を築いたのが始まりとされ、その後も千葉氏の庶流である東氏が沼闕城主となりました。
 東氏は戦国時代には主家の千葉一族とともに小田原北条氏に属し、天正18 年(1590年)の小田原合戦で滅びたとされます。
 沼闕城はその地名から、別名「小南城」とも呼ばれ、この小南には徳川家康の関東入封の際、松平(久松)定勝が3000石で入部しました。定勝は家康の義弟で、伊予松山藩祖となる人物です。
 このことからも、沼闕城が築かれた小南の地の重要性がわかります。

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 和田城(わだじょう)

和田城

 和田城はかつての椿の海から入り込んだ入江左岸の丘陵に築かれました。周辺を湿地に囲まれた要害だったと思われ、「舟戸」の地名が残ることから、水運と密接に繋がっていたことが分かります。谷を挟んで南方には桜井城、入江を挟んで北東に大友城があることからこの地域の重要性が分かります。さらに、須賀山城、森山城、小見川城などの主要城郭へ続く北進する街道が付近を通っていて、まさに水陸の要衝地です。
 和田城の築城等の詳細は不明ですが、千葉一族である上代(かじろ)氏の居城だったと伝わり、城内には千葉神社が鎮座しています。千葉神社の北方直下には三日月形の横堀が掘られ、さらに一段下に横堀が入り、そこから雛壇状の曲輪が続いています。その下は根小屋集落が形成されていたと考えられ、今でも当時の雰囲気を色濃く残しています。
 和田城は主要な2つの曲輪で形成され、その曲輪を守るように横堀、土塁、腰曲輪が施されていて、戦国時代の城郭の姿を良好に残しています。

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    開館時間 10時~12時、13時~15時 ※月・木休み

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