ホーム > 集めよう!千葉県の御城印(かずさ・臨海エリア)

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更新日:2021年4月24日

かずさ・臨海エリア

 市原市

池和田城(いけわだじょう)

 池和田城は台地から飛び出した丘の上に築かれていて、南には平蔵川を配す要害です。古くは和田太郎正治の居城とも伝わりますが詳しいことは定かではありません。南北朝時代に入ると多賀氏の居館となり、上総武田氏や里見氏の支城として使われました。
 そして戦国時代に入り、永禄7 年(1564)里見氏と後北条氏が戦った第二次国府台合戦の際に、ついに池和田城は大激闘の舞台となるのです。
国府台の戦いで大勝した後北条軍が池和田城に来襲、城を守る多賀氏をはじめとする里見方の多くは自刃、城は火をつけられ落城したと伝わります。
 その後、後北条氏の城として小田原合戦を迎えるに至り、豊臣方の軍勢に攻められ落城しました。

デザインの説明

 御城印は南北朝時代には居館を築いたとされる多賀氏の九曜、多賀氏の主君だった里見氏の二つ引き両、池和田城を攻め落として支城とした後北条氏の三つ鱗、さらには後北条氏の配下として池和田城に入った上総武田氏の四つ割菱を配置しました。
 城跡からは落城時のものと思われる焼米が出ていて、大規模な戦闘があったことが推測できます。
 今に残る城郭遺構や戦闘が行われた城であったこと、1590年まで使用されていたことなどを鑑み、戦国期の櫓をデザインしました。

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佐是城 (さぜじょう)

 鎌倉時代に佐是禅師円阿が館を構えたところと伝わる、上総武田氏の中核の城。現在、北側の城址には当寺(光福禅寺)がありますが、寺内にある二重物見台ともいえる連続する大きな物見台の遺構は圧巻といわれています。
 また戦国期には掘として活用されたと思われる谷筋を挟んだ南側の城址には、主郭、二郭、三郭と呼ばれる部分があり、特に主郭は良好に遺構が残っています。

デザインの説明

 御城印は、上総武田氏の家紋・武田菱と物見台に建っていたであろう物見櫓と兵士のシルエットをデザインしています。
佐是城の御城印は千葉県下のお城において、はじめて発行された御城印です。

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鶴舞城(つるまいじょう)

 千葉県市原市にある鶴舞城は養老川の支流である平蔵川の右岸の台地上に位置します。この辺りには縄文土器が出土している鶴舞遺跡もあり、古代から集落があったことが確認されています。浜松定6万石の城主だった井上正直公が、明治元年(1868年)の徳川家移封に伴い、鶴舞へ転封となりました。敦賀羽を広げているような地形をしているため、この地は正直公自身により、「鶴舞」と名付けられました。その際、井上家が新しい領地として開発したのが、現在の鶴舞小学校を中心とするエリアです。

 明治3年には藩庁、知事邸宅、家臣屋敷などが完成し、城下町が形成されました。そのため、「最後の城下町」の異名をとっています。城下町には武家屋敷の区画やそれに付する土塁などが残り、歴史的価値が極めて高いと思われます。しかしながら、明治4年に廃藩置県を迎えたため、城は完成せずに藩庁として機能していくことになりました。鶴舞小学校付近に残る井戸や、水堀などの遺構から当時を偲ぶことができます。

デザインの説明

 「日本最後の城下町」である上総鶴舞城御城印は、シンボルである「鶴」をモチーフにし、井上家の家紋「鷹の羽」を配置しました。旧鶴舞高校の校章もモチーフとしてデザインし、鶴舞城御城印が地元の方の地域に対する誇りにも繋がり、地域活性の一助になるように思いを込めました。

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 木更津市

真武根陣屋(まぶねじんや)

  真武根陣屋は嘉永3年(1850年)に築かれた請西藩の陣屋で、近世の木更津湊から約2㎞南東に入った標高約50mの台地上に築かれました。請西藩の陣屋はもとは1.5km北西の貝渕にありましたが、林忠旭(ただあきら)が藩主のときに間舟台に移し、「真武根陣屋」と呼ばれました。
 安政元(1854)年、忠旭は弟の忠交(ただかた)に家督を譲りましたが、忠交は慶応3(1867)年に没したため、
忠旭の子、忠崇(ただたか)が藩主となりました。ちなみに忠交は慶応2年正月、伏見寺田屋に泊まった坂本龍馬を捕縛すべく指揮を執った人物です。
 風雲急を告げる幕末の慶応3 年(1867 年)請西藩主となった林忠崇は、戊辰戦争の折、藩主でありながら自ら脱藩し、陣屋に火を放ち、旧幕府遊撃隊の要請に応じ出陣しました。文武両道で優れた人物であったといいます。出陣後、各地を転戦しますが、最後は仙台藩の説得に応じ降伏。請西藩の領地は没収され、藩は消滅し、陣屋も廃されました。
 その後、長寿を全うした忠崇は、昭和16年(1941年)まで生き、「最後の大名」の異名をとりました。
真武根陣屋跡に立つと木更津の街並みと東京湾が望めます。この目の前の海を、そして移りゆく時代の
波を忠崇はどのような思いで見ていたのでしょうか。

デザインの説明

 林氏は信濃小笠原氏の分流といわれ、戦国期に徳川氏に帰属しました。家康に従い房総へ入った林吉忠(よしただ)から数えて八代目の忠英(ただふさ)のときに、将軍家斉の側近として頭角を現し、大名となりました。
 伝承によれば、松平家(後の徳川家)の祖である松平有親・親氏父子が永享の乱に敗れ、諸国を流浪している際、信濃国林郷(現在の長野県松本市)にて旧知の武士である林光政が彼らを匿まったといいます。
 そして、自身も食に窮する中、光政は雪中に兎を捕らえて有親・親氏父子に振る舞いました。
 家康は、この先祖に対する恩に感謝し、毎年正月には林家が将軍に兎の吸い物を献上し、将軍から新年一番の酒を賜るという「献兎賜盃」を徳川幕府として儀式化しました。この儀式は徳川家においては無上の吉例とされ、林家にとっては、徳川家中において松平家に一番功績のあった家臣が林家であるということを顕示する意味で大きな意義を持ちました。途中、中絶はありましたが、「献兎賜盃」は幕末まで廃されることなく続けられました。林家では家紋にこの栄誉を表すべく、拝領紋の「丸に三巴」の下に「一」の文字を加えました。
 御城印にはその家紋「三つ巴下に一文字」、および「三階菱」をデザインし、林家の誇りである「献兎賜盃」を描いた絵をモチーフにしました。

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真里谷城(まりやつじょう)

真里谷(まりやつ)城

 真里谷城は、東京湾に注ぐ小櫃川の支流である武田川の上流部に位置する丘陵に築かれました。真里
谷城は山間部に位置しますが、城下には市原に通じる街道も通り、そこから小櫃川の水運を利用すれば、久留里、亀山方面へと通じ、さらに木更津方面に出れば江戸湾の水運も利用できる交通の要衝地です。
 享徳の乱に際し、古河公方足利成氏によって房総半島に送り込まれた武田氏が上総に進出するための
重要な足がかりとして築いた山城です。
 甲斐の守護、武田信満の子で成氏の近臣だった武田信長は房総半島に勢力を持っていた関東管領上杉
氏に対するため「足利成氏朝臣旗」を手に、里見義実とともに房総半島に入部しました。
 上総武田氏はまたたく間に上総を制し、長南城(長南町)を本拠に各地に城を取り立て勢力を拡大し
ていきました。その中で、長南城と並んで中心的な城だったのが真里谷城です。真里谷城の武田氏は「真里谷武田氏」とも呼ばれ、中心的な一族として発展していきました。
 天文6年(1537年)、真里谷武田氏の中で争いが起き、峰上城主の武田信隆が真里谷城の信応に対抗しました。これが里見義尭と北条氏を巻き込んだお家騒動となり、これを機に武田氏の勢力が弱まっていき、房総半島は里見氏対北条氏の対立という時代に動いていくことになります。

デザインの説明

 真里谷城跡は現在「少年自然の家キャンプ場」になっており、その建設時の調査では掘立柱建物跡や
陶磁器、焼けた壁土などが発掘されています。主郭から出た貿易陶磁は、多くが15世紀後半から16世紀
前半のもので、真里谷武田氏の威信財として相応しい高級な遺物といえます。そのように上総武田氏の
中心的城郭だった真里谷城の御城印には武田氏の家紋「四菱」を配置、さらに地元に伝わる「武田三河守」座像をデザインするとともに、堀や土塁、虎口などの遺構が良好に残る真里谷城の鳥瞰図をモチーフにしました。真里谷武田氏内紛時の「真里谷城」については、まだ不明なことが多く今後の研究が待たれます。
 また、市内にある前方後円墳「金鈴塚古墳」から出土した「金鈴(国重要文化財)」は木更津が古代から重要な地であったことを示すものとして取り入れました。

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 君津市

久留里城(くるりじょう)

 久留里城(千葉県君津市)は、小櫃川流域に開けた交通の要衝地に築かれています。房総半島のほぼ中央にあたるこの地は古くから経済の中心地でもありました。資料上から確認できるのは里見氏が城として取り立てた頃からです。江戸湾を抑えるために佐貫城を拠点とするはずが、北条氏との戦いの中で中央部に追いやられる形で久留里城が里見義堯の拠点となったと考えられています。

 そのような情勢下の中で、久留里城は永禄3年(1560)には北条氏に包囲されています。しかし義堯は長尾景虎(上杉謙信)に援軍を頼み、窮地を脱しました。天正2年(1574)義堯が城内で死去すると、久留里城の勢力は衰退、家中の一支城という位置づけになっていきました。

 家康の関東入部以降は大須賀氏、土屋氏、黒田氏が入り、近世城郭として整備され、幕末まで存続しました。

デザインの説明

 御城印は、久留里城に建つ模擬天守をモチーフにしました。そして、模擬天守の前には天守台跡の基壇をデザインしました。発掘調査によると、本丸跡から掘立柱建築物跡が出ており、まさに中世里見氏のロマンが詰まっているといえます。ただ、遺物の少なさなどから、山頂は有事の際の結城としての利用が推測できます。さらに里見氏の家紋「二つ引両」と、正源寺所蔵の里見義堯座像を配置しました。幕末まで存続した久留里城の姿をイメージしています。

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  • JR久留里線久留里駅前・君津市久留里観光交流センター:君津市久留里市場195-4/TEL 0439-27-2875)

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 富津市

飯野陣屋(いいのじんや)

 飯野陣屋(千葉県富津市)は保科正貞によって築かれた上総国飯野藩の陣屋です。慶安元年(1648)に正貞が加増を受け、1万7千石の大名になったため陣屋を構えました。保科氏は甲斐武田氏、次いで徳川氏に仕え譜代大名となりました。その後、正之は会津に移りますが、飯野藩は会津保科家を本家とし、幕末まで分家として存続、陣屋も維持されました。

 慶応2年(1866)、藩主正益(まさあり)は幕府若年寄になり、第二次長州戦争を指揮しましたが、明治維新を迎えるに至り、版籍奉還を受けて一時的に飯野藩は飯野県の県庁となるも、明治4年11月に廃庁となりました。

飯野陣屋は富津古墳群の中に築かれており、周囲にはいくつかの古墳が存在します。さらに陣屋内には前方後円墳である三条塚古墳が残っていて、その麓には藩校「明親館」が置かれていました。

陣屋の構造は城郭構えになっていて、横矢が掛かる張り出しを設け、周囲には土塁と水堀を巡らせています。本丸から三の丸の広さは東西430m、南北290mに及び、いまに残る見事な水堀は「飯野陣屋濠跡」として、千葉県の指定史跡となっています。

デザインの説明

 飯野陣屋は、敦賀陣屋(越前国)、徳山陣屋(周防国)とともに「日本三陣屋」に数えられています。今に残る見事な水堀は、まさに飯野陣屋のシンボルであるため、飯野陣屋絵図の水堀を強調して浮かび上がらせ、御城印デザインのモチーフにしました。

 さらに保科氏の家紋である「並九曜」を配置しました。明治維新後、そのまま飯野の地に残り帰農した家臣も多く、いまでも城下町の趣が残っています。

ご購入はこちら
  • 平野青果(代表 平野喜美代)富津市下飯野895-1/TEL 0439-87-0386
  • 飯野ラーメン(代表 沼田幾雄)富津市下飯野330-3/TEL 0439-87-1535

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造海城(つくろうみじょう)

 造海城は浦賀水道に面し、白狐川の河口を見下ろす丘陵の先端に築かれました。目の前には東京湾が広がり、対岸わずか12km先に三浦半島があり、戦国期には北条水軍の拠点であった浦賀城(横須賀市)を正面に見ることができます。

 「造海(つくろうみ)」という名は、中世の郷名に由来し、「つくろふミの城」として中世文書等に登場しますが、「百首の要害」「百首の湊」としても度々散見するため、別名「百首城」とも呼ばれています。

 築城時期などの詳細は不明ですが、真里谷武田氏が上総国に勢力を広げていく過程の中で城として取り立てられたと思われます。その後、里見氏の内紛やそれを取り巻く戦国期の様々な勢力争いが起きると、海上の重要拠点として機能し、真里谷武田氏没後の後は里見氏の城として、里見家臣である正木氏がこの地に入り、江戸湾を挟んで北条氏と繰り広げた抗争の舞台となったと考えられます。

 デザインの説明

 江戸湾を臨む好立地に築かれた造海城は、いつの時代も重要な海防拠点でした。幕末には異国船への備えのため、造海城の曲輪などを利用して、竹ヶ岡砲台が築かれました。江戸時代に書かれた砲台の絵図をモチーフに、要害である造海城の断崖と地形を描きました。

 造海城を拠点に、江戸湾沿岸部をめぐる戦国時代の戦いに登場する正木氏「三つ引両」、里見氏「二つ引両」というそれぞれの家紋を配置しました。

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旅して集めよう!千葉県の御城印!

ベイエリア

東葛飾エリア

北総エリア

九十九里エリア

南房総エリア

かずさ・臨海エリア

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ここに集めよう!千葉県の御城印帳

下総多古 御城印帳

  •  【販売場所】多古 道の駅あじさい館:多古町多古1069-1

館山城 御城印帳

  • 【販売場所】館山城館山市立博物館受付:館山市館山351-2 城山公園内

大多喜城 御城印帳

  • 【販売場所】大多喜町観光本陣:夷隅郡大多喜町大多喜270-1(いすみ鉄道大多喜駅前)
  • 【販売場所】大多喜城分館(千葉県立中央博物館):夷隅郡大多喜町大多喜481

猪鼻城 御城印帳

  •  【販売場所】いのはな亭:千葉市中央区亥鼻1-6(亥鼻公園内)

南房総市/南総里見八犬伝御城印帳

【販売場所】

 

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▽いくつかの千葉県「御城印」デザインを手掛ける「山城ガールむつみ」さん▽

  • 山城ガールむつみさんからのメッセージ

千葉県はたくさんの城跡があり、歴史の宝庫です。
千葉氏、里見氏に代表されるような、面白くドラマチックな歴史が満載です。
今ブームになっている「御城印」が地域の歴史や城を知り、大事に思うきっかけになれば嬉しいです。
これからもカッコよく素敵なデザインの御城印が続々と発行されますのでお楽しみに!