ホーム > 集めよう!千葉県の御城印(ごじょういん)! > 集めよう!千葉県の御城印(かずさ・臨海エリア)
ここから本文です。
更新日:2023年9月23日
池和田城は台地から飛び出した丘の上に築かれていて、南には平蔵川を配す要害です。古くは和田太郎正治の居城とも伝わりますが詳しいことは定かではありません。南北朝時代に入ると多賀氏の居館となり、上総武田氏や里見氏の支城として使われました。
そして戦国時代に入り、永禄7 年(1564)里見氏と後北条氏が戦った第二次国府台合戦の際に、ついに池和田城は大激闘の舞台となるのです。
国府台の戦いで大勝した後北条軍が池和田城に来襲、城を守る多賀氏をはじめとする里見方の多くは自刃、城は火をつけられ落城したと伝わります。
その後、後北条氏の城として小田原合戦を迎えるに至り、豊臣方の軍勢に攻められ落城しました。
鎌倉時代に佐是禅師円阿が館を構えたところと伝わる、上総武田氏の中核の城。現在、北側の城址には当寺(光福禅寺)がありますが、寺内にある二重物見台ともいえる連続する大きな物見台の遺構は圧巻といわれています。
また戦国期には掘として活用されたと思われる谷筋を挟んだ南側の城址には、主郭、二郭、三郭と呼ばれる部分があり、特に主郭は良好に遺構が残っています。
千葉県市原市にある鶴舞城は養老川の支流である平蔵川の右岸の台地上に位置します。この辺りには縄文土器が出土している鶴舞遺跡もあり、古代から集落があったことが確認されています。浜松定6万石の城主だった井上正直公が、明治元年(1868年)の徳川家移封に伴い、鶴舞へ転封となりました。敦賀羽を広げているような地形をしているため、この地は正直公自身により、「鶴舞」と名付けられました。その際、井上家が新しい領地として開発したのが、現在の鶴舞小学校を中心とするエリアです。
明治3年には藩庁、知事邸宅、家臣屋敷などが完成し、城下町が形成されました。そのため、「最後の城下町」の異名をとっています。城下町には武家屋敷の区画やそれに付する土塁などが残り、歴史的価値が極めて高いと思われます。しかしながら、明治4年に廃藩置県を迎えたため、城は完成せずに藩庁として機能していくことになりました。鶴舞小学校付近に残る井戸や、水堀などの遺構から当時を偲ぶことができます。
真武根陣屋は嘉永3年(1850年)に築かれた請西藩の陣屋で、近世の木更津湊から約2㎞南東に入った標高約50mの台地上に築かれました。請西藩の陣屋はもとは1.5km北西の貝渕にありましたが、林忠旭(ただあきら)が藩主のときに間舟台に移し、「真武根陣屋」と呼ばれました。
安政元(1854)年、忠旭は弟の忠交(ただかた)に家督を譲りましたが、忠交は慶応3(1867)年に没したため、
忠旭の子、忠崇(ただたか)が藩主となりました。ちなみに忠交は慶応2年正月、伏見寺田屋に泊まった坂本龍馬を捕縛すべく指揮を執った人物です。
風雲急を告げる幕末の慶応3 年(1867 年)請西藩主となった林忠崇は、戊辰戦争の折、藩主でありながら自ら脱藩し、陣屋に火を放ち、旧幕府遊撃隊の要請に応じ出陣しました。文武両道で優れた人物であったといいます。出陣後、各地を転戦しますが、最後は仙台藩の説得に応じ降伏。請西藩の領地は没収され、藩は消滅し、陣屋も廃されました。
その後、長寿を全うした忠崇は、昭和16年(1941年)まで生き、「最後の大名」の異名をとりました。
真武根陣屋跡に立つと木更津の街並みと東京湾が望めます。この目の前の海を、そして移りゆく時代の
波を忠崇はどのような思いで見ていたのでしょうか。
真里谷城は、東京湾に注ぐ小櫃川の支流である武田川の上流部に位置する丘陵に築かれました。真里
谷城は山間部に位置しますが、城下には市原に通じる街道も通り、そこから小櫃川の水運を利用すれば、久留里、亀山方面へと通じ、さらに木更津方面に出れば江戸湾の水運も利用できる交通の要衝地です。
享徳の乱に際し、古河公方足利成氏によって房総半島に送り込まれた武田氏が上総に進出するための
重要な足がかりとして築いた山城です。
甲斐の守護、武田信満の子で成氏の近臣だった武田信長は房総半島に勢力を持っていた関東管領上杉
氏に対するため「足利成氏朝臣旗」を手に、里見義実とともに房総半島に入部しました。
上総武田氏はまたたく間に上総を制し、長南城(長南町)を本拠に各地に城を取り立て勢力を拡大し
ていきました。その中で、長南城と並んで中心的な城だったのが真里谷城です。真里谷城の武田氏は「真里谷武田氏」とも呼ばれ、中心的な一族として発展していきました。
天文6年(1537年)、真里谷武田氏の中で争いが起き、峰上城主の武田信隆が真里谷城の信応に対抗しました。これが里見義尭と北条氏を巻き込んだお家騒動となり、これを機に武田氏の勢力が弱まっていき、房総半島は里見氏対北条氏の対立という時代に動いていくことになります。
久留里城(千葉県君津市)は、小櫃川流域に開けた交通の要衝地に築かれています。房総半島のほぼ中央にあたるこの地は古くから経済の中心地でもありました。資料上から確認できるのは里見氏が城として取り立てた頃からです。江戸湾を抑えるために佐貫城を拠点とするはずが、北条氏との戦いの中で中央部に追いやられる形で久留里城が里見義堯の拠点となったと考えられています。
そのような情勢下の中で、久留里城は永禄3年(1560)には北条氏に包囲されています。しかし義堯は長尾景虎(上杉謙信)に援軍を頼み、窮地を脱しました。天正2年(1574)義堯が城内で死去すると、久留里城の勢力は衰退、家中の一支城という位置づけになっていきました。
家康の関東入部以降は大須賀氏、土屋氏、黒田氏が入り、近世城郭として整備され、幕末まで存続しました。
小坪館は南に小櫃川、北に松川が流れる標高約1.5 メートルから2mの自然堤防上に築かれました。現在の中川小学校付近が小坪館の推定地とされています。周辺には小坪館との関係も考えられる「榎戸」という小字名、「中溝」という伝承地名も残っています。 小坪館の詳細は不明ですが、鎌倉時代前期には、横田郷の在地領主と考えられる「横田悪四郎入道」なる人物が上総国御家人として記録されています。戦国期になると横田郷は真里谷武田氏の支配を受け、武田氏の流れをくむと言われる葛田氏が在地領主となっていた可能性があります。葛田氏の初代とされる信恒は、里見義尭と戦ったのち里見氏の軍門に下り、横田郷を与えられたと伝わります。
小坪館の全体構造については不明ですが、小坪館の中心地と思われる中川小学校東南には横田神社が鎮座していて、そのまわりには土塁や堀の痕跡にも見える跡があることから、横田神社も小坪館の一部であった可能性が考えられます。
小坪館北側には戦国期には存在したと考えられる街道(久留里街道)が通り、街道沿いには上宿・中下(宿)の地名が残ります。葛田家に伝わる古文書からは、天正8年(1580 年)横田に新宿が立てられ、里見氏がこれについて「不入」を承認するとともに市の開催を要請したことがわかっています。
さらに、小坪館の北西には横田郷へ入る北の入口を意味すると思われる「北口城」があります。北口城は松川、小櫃川の両河川の水運及び街道の往来を直接押さえる機能を担っていたと思われます。小坪館は北口城と連携し、横田郷の中心的城館の役目を担っていたと思われます。
小坪館の北を流れる松川は、遡航すると川原井城や川原井里見城へと繋がるとともに、最上流部より丘越えすると養老川水系等へと繋がる重要な水上交通網でした。小坪館はそれらの城とも連携していた可能性があり、小櫃川はもとより、松川における水上交通網は中世期においては小櫃川同様の重要性を持っていたと思われ、小坪館を考える上で欠かせない鍵になるといえます。
川原井里見城は小櫃川の支流松川によって形成された谷津に面した標高80mの丘陵に築かれました。里見亦四郎の居城という伝承を持ち、「ジョウヤマ(城山)」の字名が残っています。現在、「ジョウヤマ」と呼ばれる最高地点はゴルフ場となっていますが、かつては80m×50mの区画と、西側に堀が存在したとされています。さらに周辺には「軍坪(いくさつぼ)」「番所」「番所谷」「番所前」「長堀」などの地名が残っています。
また、番所谷北側の高台には土塁に囲まれた空間があったことが見て取れ、最高所の「ジョウヤマ」とその下に位置する区画とが一体になり機能していた可能性が考えられます。
川原井里見城の詳細は不明ですが、松川とそれに沿うように通る街道を押さえる役目を担っていたと考えられます。この地域は近くに鎌倉街道も走り、また松川は川原井付近の最上流部から丘越えをすれば、養老川水系に繋がり、交通の要衝です。城山麓の北西を流れる大月川の対岸の真光寺の台地からは平安時代を中心とした遺跡が存在することからも、この地域は古くから往来があり、開けた大事な場所だったことが推察されます。
山を越えた西方に真里谷武田氏、里見氏、小田原北条氏いずれかの築城と考えられている川原井城があることからも、この付近が諸勢力の入り交じる重要な場所であったことが分かります。
蔵波城は築城年代や築城主などの詳細は不明ですが、近接する久保田城とともに、椎津城の支城だったともいわれていて、後に里見氏の城として、対北条氏の前線基地の役割を持っていたと考えられます。
蔵波城は椎津から木更津に通じる海岸沿いの街道を押え、さらに北側には長南、真里谷に通じるルートが存在する重要な地でした。そのため、蔵波周辺は上総武田氏、千葉氏、小田原北条氏、里見氏の抗争の舞台となりました。
東京湾に面した丘陵に築かれ、周囲には「殿畑(とのはた)」「宿畑(しくはた)」といった地名が残っています。
開発により城跡のほとんどが崩され、現在は蔵波八幡神社が建つ丘陵部分(現在の蔵波小鳥の森)を残すのみですが、かつてはここから北に向かって、城域が展開していました。
蔵波城の西側は海が迫り、南側には防御の役目を担っていたと思われる蔵波川が流れていることからも、蔵波城が築かれた丘陵が要害の地であったことが見て取れます。
蔵波周辺には14 世紀からの中世集団墓地が発見された神田遺跡をはじめ、五輪塔等の中世石塔物が多く残り、湊町として早くから栄えていたことがわかります。そのため、対岸の海賊衆から略奪にあうこともあり、武蔵国坂本村(現横浜市)の寺に「もと上総国望陀郡蔵波村八幡社の鐘」があったという伝えもあります。蔵波城は、早くから里見氏の経済拠点である蔵波湊の守護としても重要な場所でした。
蔵波城から北東約2kmの距離にある久保田城は、天正14年(1586年)頃には北条氏が支配し、整備を繰り返していたことが資料にあり、非常に近い位置で里見氏と北条氏が対峙していたことがわかります。
船戦の戦況を報告する書状も残っていて、蔵波城の前面の海で里見方と北条方が船戦を繰り広げ、北条方が勝利したことがわかっています。まさに蔵波城は戦国時代の江戸湾攻防の歴史を物語る城といえます。
天羽城は標高約120mの丘陵に築かれた山城です。北側には湊川、西側には相川が流れていることから、水上交通の発達した地域であったことが分かります。さらには、城下西方の相川に並行するように鎌倉みちと伝わる街道が通っており、水上交通のみならず、陸上交通の要衝地でもあったことが推察できます。
天羽城の築城等の詳細は一切不明ですが、「天羽城(あもじろ)」という字名も残ることから、地元では古くからこの山が天羽城であると伝えられてきました。
天羽城は井戸、土橋、堀切、石積み遺構等が残り、さらに山頂部は綺麗に削平されており、周辺を見渡せる視界良好の主郭となっています。北西には湊川越しに東京湾、東には峰上城を臨むことができます。
「天羽」は、その地名から上総氏の庶流である天羽氏が平安時代末期から鎌倉時代に天羽の地を領し、苗字の地としたと考えられています。今に残る天羽城は室町期以降に築かれた山城だと推察され、真里谷武田氏の峰上城と連携して機能していたと考えられています。また、天羽城周辺には里見義実が創建し、正木時治が再興したとの伝承をもつ見性寺があることから、天羽城と正木氏の関連も指摘されています。
飯野陣屋(千葉県富津市)は保科正貞によって築かれた上総国飯野藩の陣屋です。慶安元年(1648)に正貞が加増を受け、1万7千石の大名になったため陣屋を構えました。保科氏は甲斐武田氏、次いで徳川氏に仕え譜代大名となりました。その後、正之は会津に移りますが、飯野藩は会津保科家を本家とし、幕末まで分家として存続、陣屋も維持されました。
慶応2年(1866)、藩主正益(まさあり)は幕府若年寄になり、第二次長州戦争を指揮しましたが、明治維新を迎えるに至り、版籍奉還を受けて一時的に飯野藩は飯野県の県庁となるも、明治4年11月に廃庁となりました。
飯野陣屋は富津古墳群の中に築かれており、周囲にはいくつかの古墳が存在します。さらに陣屋内には前方後円墳である三条塚古墳が残っていて、その麓には藩校「明親館」が置かれていました。
陣屋の構造は城郭構えになっていて、横矢が掛かる張り出しを設け、周囲には土塁と水堀を巡らせています。本丸から三の丸の広さは東西430m、南北290mに及び、いまに残る見事な水堀は「飯野陣屋濠跡」として、千葉県の指定史跡となっています。
金谷城は鋸山から北に伸びる丘陵に築かれました。眼前には浦賀水道が広がり、さらには上総国と安房国の 境に当たる要衝の地です。東京湾を挟んで、三浦半島を指呼の距離に望むことができ、金谷城は諸勢力の水軍拠点の海城として使用されていたと推察されます。
築城主や築城年代は不明ですが、天文年間(1532年~1555年)初頭の段階では、里見実発の居城であったと考えられています。
史料上の初見は、天文22年(1553年)の文書で、それによると里見氏の庇護を受けていた妙本寺(鋸南町)の住持日我が戦乱から逃れるために、金谷城に経典などを運び込んで避難するも戦火で焼失したといいます。里見氏の庇護する妙本寺の住持が金谷城に避難していることから、金谷城が当時、里見方の城だったことがわかります。
その後、金谷城は内房正木氏の管理下に隧かれたと考えられます。正木氏は小田原北条氏に属していた時期もあり、その際は金谷城も北条方の城となりました。詳細は不明ですが、正木氏が再度里見氏に属すようになると、金谷城は里見方の城として機能したと思われます。
佐貫城、造海城、勝山城が里見氏の拠点として整備されていくと、金谷城は造海城の支城として連携し存続していったと推測できます。
現在、城址にはスポーツセンターが建ち、当時の城の姿は失われているものの、その立地から戦国期には里見氏、小田原北条氏の紛争の舞台であったことが見て取れます。
佐貫城は染川とその支流の北上川に囲まれた丘陵に築かれました。16世紀前半には、上総武田氏の拠点の一つだったと考えられています。永正4年 (1507年)の佐貫鶴峰八幡神社再興棟札には、大旦那として武田氏の名が書かれていることからも、武田氏と佐貫の関係が指摘されています。
その後、武田氏の内紛に介入した里見氏と小田原北条氏の争いがおき、佐貫城も両勢力の戦いの舞台になりました。天文14年 (1545年)頃には里見氏の城となり、当主である義堯が居城としていましたが、 北条氏が佐貫城を囲み、 里見方は北条氏が囲みを解くまでの1ヶ月近くを龍城戦で凌いだといいます。しかし、天文年間の終わり頃にはついに佐貫城が落とされ、義堯は久留里城に移ったとされています。
永禄6年(1563年)には北条氏が擁立した古河公方足利義氏が佐貫城に入っていることからも、北条氏がいかに佐貫城を重要視していたかがわかります。この後、里見氏と北条氏が江戸湾を挟んで佐貫城を巡り熾烈な戦いを繰り広げます。その過程で佐貫城は再び里見氏の城となり、里見氏の本拠が岡本城(南房総市)に移ると佐貫城は里見方の一拠点として存続していきました。
天正18年(1590年)の小田原合戦以降、関東に徳川家康が入封すると、徳川譜代の内藤家長が入城しました。その後は松平氏の時代や天領になった時期を経て、阿部氏が入ります。
宝永7年(1710年)に入封した阿部氏は、藩校の誠道館の設立や、砲台を築いて海防強化に努めました。そして、多くの幕府関係の儀式に参加し、譜代大名として明治まで存続しました。
造海城は浦賀水道に面し、白狐川の河口を見下ろす丘陵の先端に築かれました。目の前には東京湾が広がり、対岸わずか12km先に三浦半島があり、戦国期には北条水軍の拠点であった浦賀城(横須賀市)を正面に見ることができます。
「造海(つくろうみ)」という名は、中世の郷名に由来し、「つくろふミの城」として中世文書等に登場しますが、「百首の要害」「百首の湊」としても度々散見するため、別名「百首城」とも呼ばれています。
築城時期などの詳細は不明ですが、真里谷武田氏が上総国に勢力を広げていく過程の中で城として取り立てられたと思われます。その後、里見氏の内紛やそれを取り巻く戦国期の様々な勢力争いが起きると、海上の重要拠点として機能し、真里谷武田氏没後の後は里見氏の城として、里見家臣である正木氏がこの地に入り、江戸湾を挟んで北条氏と繰り広げた抗争の舞台となったと考えられます。
天神山上は上総湊へと注ぎ込む湊川の河口を見下ろす丘陵に築かれました。山頂からは、湊川と東京湾を臨むことができ、水上交通の要所であったことが分かります。
丘陵部は断崖絶壁の様そうを呈し、特に西と東斜面は急陵で自然の要害となっています。主郭北側には大きな堀切が施され、掘り切られた先には、出曲輪のような空間が設けられています。この曲輪は主郭に集まる尾根の結節箇所に当たるため、主郭と接する東側の堀切以外にも、南側と西側に掘り切られ、尾根を分断しています。小さな空間ながらも、防衛上重要な位置づけであったことが見て取れます。
城山の山麓は「天神台」と呼ばれ、天神社が祀られています。天神台と呼ばれるエリアは開発され、住宅地になっているため、旧状は不明ながらも、平場が階段上に形成されていたと思われる痕跡が残っています。また、天神台西側には「根古屋」の地名が残っています。このことから、天神台周辺の城主の巨館や家臣の屋敷だった可能性が指摘されています。
天神山城の築城などに関わる詳細は不明ですが、真里谷武田氏が文明年間(1469年-1487年)に築き、その後、小田原北条氏は以下の戸崎玄蕃頭勝久が天神山城を居城としていたとも伝わっています。
弘治3年(1557年)に、北条氏が「天神山」に兵糧を運び込む指示を出している史料が残っており、この「天神山」が天神山城に該当すると考えられています。このときには内房正木兵部大輔が天神山城を管理していたと思われ、北条方として在城していたようです。
天神山城は史料に乏しいものの、緊迫した状況かで真里谷武田氏、里見氏、正木氏、北条氏などの勢力の移り変わりが推察され、小田原の役の後は廃城となったと考えられます。
峰上城は湊川の河口から5kmほど上流、支流である志駒川と合流する地点の標高約130mの丘陵に築かれました。長狭方面や小糸方面、また湊川を通じて東京湾に出ることができる立地からも、水陸両方の交通の要衝地であったことが分かります。秋元(小糸)城、久留里城を通じて真里谷武田氏の本城である真里谷城と連携していたと考えられます。
峰上城は遺構が広範囲にわたって良好に残っています。また、『上総国天羽郡峯上古城之図』(国学院大学図書館所蔵)には、「大橋」「大門」「中城」「本丸」「尾崎曲輪」などの記載があり、当時の大手道など、城の様子が推察できます。
峰上城の築城等の詳細は不明ですが、古河公方足利成氏の家臣真里谷武田氏が上総南西部の支配拠点として築いたと考えられていて、真里谷武田信興による築城とも伝わっています。城内の環神社に奉納された天文2年(1533年)の紀年銘を持つ鰐口に「峰上之城」と刻まれていることから、少なくともこのときまでには築城されていたことが明らかとなっています。
峰上城は真里谷武田氏の重要拠点として機能していたと考えられますが、『鳥海文書』には、尾崎曲輪に駐屯していた吉原玄蕃助が二十二人衆を率いて小田原北条方として戦ったと記されていて、16世紀中頃には小田原北条方の城となっていた可能性も指摘されています。詳細は不明ながら、戦国期の諸勢力が入り乱れて争った状況を知ることができる貴重な城といえます。