ホーム > 集めよう!千葉県の御城印(かずさ・臨海エリア)

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更新日:2020年11月28日

かずさ・臨海エリア

 

 市原市/池和田城(いけわだじょう)

 池和田城は台地から飛び出した丘の上に築かれていて、南には平蔵川を配す要害です。古くは和田太郎正治の居城とも伝わりますが詳しいことは定かではありません。南北朝時代に入ると多賀氏の居館となり、上総武田氏や里見氏の支城として使われました。
 そして戦国時代に入り、永禄7 年(1564)里見氏と後北条氏が戦った第二次国府台合戦の際に、ついに池和田城は大激闘の舞台となるのです。
国府台の戦いで大勝した後北条軍が池和田城に来襲、城を守る多賀氏をはじめとする里見方の多くは自刃、城は火をつけられ落城したと伝わります。
 その後、後北条氏の城として小田原合戦を迎えるに至り、豊臣方の軍勢に攻められ落城しました。

デザインの説明

 御城印は南北朝時代には居館を築いたとされる多賀氏の九曜、多賀氏の主君だった里見氏の二つ引き両、池和田城を攻め落として支城とした後北条氏の三つ鱗、さらには後北条氏の配下として池和田城に入った上総武田氏の四つ割菱を配置しました。
 城跡からは落城時のものと思われる焼米が出ていて、大規模な戦闘があったことが推測できます。
 今に残る城郭遺構や戦闘が行われた城であったこと、1590年まで使用されていたことなどを鑑み、戦国期の櫓をデザインしました。

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市原市/佐是城 (さぜじょう)

 鎌倉時代に佐是禅師円阿が館を構えたところと伝わる、上総武田氏の中核の城。現在、北側の城址には当寺(光福禅寺)がありますが、寺内にある二重物見台ともいえる連続する大きな物見台の遺構は圧巻といわれています。
 また戦国期には掘として活用されたと思われる谷筋を挟んだ南側の城址には、主郭、二郭、三郭と呼ばれる部分があり、特に主郭は良好に遺構が残っています。

デザインの説明

 御城印は、上総武田氏の家紋・武田菱と物見台に建っていたであろう物見櫓と兵士のシルエットをデザインしています。
佐是城の御城印は千葉県下のお城において、はじめて発行された御城印です。

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市原市/鶴舞城(つるまいじょう)

 千葉県市原市にある鶴舞城は養老川の支流である平蔵川の右岸の台地上に位置します。この辺りには縄文土器が出土している鶴舞遺跡もあり、古代から集落があったことが確認されています。浜松定6万石の城主だった井上正直公が、明治元年(1868年)の徳川家移封に伴い、鶴舞へ転封となりました。敦賀羽を広げているような地形をしているため、この地は正直公自身により、「鶴舞」と名付けられました。その際、井上家が新しい領地として開発したのが、現在の鶴舞小学校を中心とするエリアです。

 明治3年には藩庁、知事邸宅、家臣屋敷などが完成し、城下町が形成されました。そのため、「最後の城下町」の異名をとっています。城下町には武家屋敷の区画やそれに付する土塁などが残り、歴史的価値が極めて高いと思われます。しかしながら、明治4年に廃藩置県を迎えたため、城は完成せずに藩庁として機能していくことになりました。鶴舞小学校付近に残る井戸や、水堀などの遺構から当時を偲ぶことができます。

デザインの説明

 「日本最後の城下町」である上総鶴舞城御城印は、シンボルである「鶴」をモチーフにし、井上家の家紋「鷹の羽」を配置しました。旧鶴舞高校の校章もモチーフとしてデザインし、鶴舞城御城印が地元の方の地域に対する誇りにも繋がり、地域活性の一助になるように思いを込めました。

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  • つるまいホープラザ:市原市鶴舞303 /TEL 0436-88-4001

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 富津市/飯野陣屋(いいのじんや)

 飯野陣屋(千葉県富津市)は保科正貞によって築かれた上総国飯野藩の陣屋です。慶安元年(1648)に正貞が加増を受け、1万7千石の大名になったため陣屋を構えました。保科氏は甲斐武田氏、次いで徳川氏に仕え譜代大名となりました。その後、正之は会津に移りますが、飯野藩は会津保科家を本家とし、幕末まで分家として存続、陣屋も維持されました。

 慶応2年(1866)、藩主正益(まさあり)は幕府若年寄になり、第二次長州戦争を指揮しましたが、明治維新を迎えるに至り、版籍奉還を受けて一時的に飯野藩は飯野県の県庁となるも、明治4年11月に廃庁となりました。

飯野陣屋は富津古墳群の中に築かれており、周囲にはいくつかの古墳が存在します。さらに陣屋内には前方後円墳である三条塚古墳が残っていて、その麓には藩校「明親館」が置かれていました。

陣屋の構造は城郭構えになっていて、横矢が掛かる張り出しを設け、周囲には土塁と水堀を巡らせています。本丸から三の丸の広さは東西430m、南北290mに及び、いまに残る見事な水堀は「飯野陣屋濠跡」として、千葉県の指定史跡となっています。

デザインの説明

 飯野陣屋は、敦賀陣屋(越前国)、徳山陣屋(周防国)とともに「日本三陣屋」に数えられています。今に残る見事な水堀は、まさに飯野陣屋のシンボルであるため、飯野陣屋絵図の水堀を強調して浮かび上がらせ、御城印デザインのモチーフにしました。

 さらに保科氏の家紋である「並九曜」を配置しました。明治維新後、そのまま飯野の地に残り帰農した家臣も多く、いまでも城下町の趣が残っています。

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  • 平野青果(代表 平野喜美代)富津市下飯野895-1/TEL 0439-87-0386
  • 飯野ラーメン(代表 沼田幾雄)富津市下飯野330-3/TEL 0439-87-1535

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富津市/造海城(つくろうみじょう)

 造海城は浦賀水道に面し、白狐川の河口を見下ろす丘陵の先端に築かれました。目の前には東京湾が広がり、対岸わずか12km先に三浦半島があり、戦国期には北条水軍の拠点であった浦賀城(横須賀市)を正面に見ることができます。

 「造海(つくろうみ)」という名は、中世の郷名に由来し、「つくろふミの城」として中世文書等に登場しますが、「百首の要害」「百首の湊」としても度々散見するため、別名「百首城」とも呼ばれています。

 築城時期などの詳細は不明ですが、真里谷武田氏が上総国に勢力を広げていく過程の中で城として取り立てられたと思われます。その後、里見氏の内紛やそれを取り巻く戦国期の様々な勢力争いが起きると、海上の重要拠点として機能し、真里谷武田氏没後の後は里見氏の城として、里見家臣である正木氏がこの地に入り、江戸湾を挟んで北条氏と繰り広げた抗争の舞台となったと考えられます。

 デザインの説明

 江戸湾を臨む好立地に築かれた造海城は、いつの時代も重要な海防拠点でした。幕末には異国船への備えのため、造海城の曲輪などを利用して、竹ヶ岡砲台が築かれました。江戸時代に書かれた砲台の絵図をモチーフに、要害である造海城の断崖と地形を描きました。

 造海城を拠点に、江戸湾沿岸部をめぐる戦国時代の戦いに登場する正木氏「三つ引両」、里見氏「二つ引両」というそれぞれの家紋を配置しました。

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 君津市/久留里城(くるりじょう)

 久留里城(千葉県君津市)は、小櫃川流域に開けた交通の要衝地に築かれています。房総半島のほぼ中央にあたるこの地は古くから経済の中心地でもありました。資料上から確認できるのは里見氏が城として取り立てた頃からです。江戸湾を抑えるために佐貫城を拠点とするはずが、北条氏との戦いの中で中央部に追いやられる形で久留里城が里見義堯の拠点となったと考えられています。

 そのような情勢下の中で、久留里城は永禄3年(1560)には北条氏に包囲されています。しかし義堯は長尾景虎(上杉謙信)に援軍を頼み、窮地を脱しました。天正2年(1574)義堯が城内で死去すると、久留里城の勢力は衰退、家中の一支城という位置づけになっていきました。

 家康の関東入部以降は大須賀氏、土屋氏、黒田氏が入り、近世城郭として整備され、幕末まで存続しました。

デザインの説明

 御城印は、久留里城に建つ模擬天守をモチーフにしました。そして、模擬天守の前には天守台跡の基壇をデザインしました。発掘調査によると、本丸跡から掘立柱建築物跡が出ており、まさに中世里見氏のロマンが詰まっているといえます。ただ、遺物の少なさなどから、山頂は有事の際の結城としての利用が推測できます。さらに里見氏の家紋「二つ引両」と、正源寺所蔵の里見義堯座像を配置しました。幕末まで存続した久留里城の姿をイメージしています。

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  • JR久留里線久留里駅前・君津市久留里観光交流センター:君津市久留里市場195-4/TEL 0439-27-2875)

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いくつかの千葉県「御城印」デザインを手掛ける「山城ガールむつみ」さん▽

  • 山城ガールむつみさんからのメッセージ

千葉県はたくさんの城跡があり、歴史の宝庫です。
千葉氏、里見氏に代表されるような、面白くドラマチックな歴史が満載です。
今ブームになっている「御城印」が地域の歴史や城を知り、大事に思うきっかけになれば嬉しいです。
これからもカッコよく素敵なデザインの御城印が続々と発行されますのでお楽しみに!