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更新日:2022年6月25日

ベイエリア

八千代市

 

 市川市

 下総 国府台城(こうのだいじょう)

 国府台城は、旧利根川水系である太日川(現在の江戸川)沿いの標高 25mほどの断崖上に築かれました。 現在は、里見公園として整備され、堀切、空堀跡のなごりと見られる切通し状の坂道などが残っています。公園整備や戦時中の軍隊利用によって、当時の姿からかなり改変されましたが、土塁や櫓台と思われる遺構が確認できます。国府台は、眼下に渡河点があったため、度重なる合戦の舞台となりました。
 文明10年(1478年)、扇谷上杉氏の家宰である太田道灌が長尾景春に与した千葉孝胤(のりたね)を攻めるため、境根原合戦が起きました。その際に道灌が陣城を国府台に構えたと伝わり、この戦いで敗れた孝胤は、臼井城(佐倉市)に退却を余儀なくされます。孝胤追撃のため、文明11年 (1479年)、道灌の弟(一説には甥)の資忠が国府台に城を築いたとされ、この時にはじめて国府台城が本格的に築城されたと考えられています。
 その後は天文7年 (1538年)、小弓公方足利義明が陣を構え北条氏綱と戦った第一次国府台合戦や、永禄7年 (1564年)に北条氏と里見氏が戦った第二次国府台合戦などが繰り広げられ、国府台は度重なる戦いの舞台となりました。その後の城主・城代は不明ですが、国府台城は戦いの度に堅固な城郭として整備されていったと思われます。

デザインの説明

 天文年間になると、里見氏や真里谷(まりやつ)武田氏といった大名たちが、一族の中で家督争いによる分裂を引き起こします。それぞれの支持をめぐり、各勢力間で抗争が起きました。これらは北条氏、里見氏、小弓公方、古河公方らを巻き込んでの対立へと発展し、天文7年 (1538年)、国府台にて小弓公方足利義明と北条氏綱の間で戦いが起きました。 これが、世にいう第一次国府台合戦です。結果は義明の甥である古河公方晴氏の意を受けた北条氏綱が勝利、義明は壮絶な討ち死にを遂げました。
 武勇に優れた義明は、自ら陣頭に立ち、指揮をとったと伝わっています。御城印は、その義明の雄姿を描いた絵をモチーフにしました。 さらに、第一次国府台合戦で戦った足利氏と北条氏の家紋を上部に配置し、 第二次国府台合戦で戦った里見氏と北条氏の家紋を下部に配置し、動乱の戦国時代をイメ-ジしました。

  千葉市

 猪鼻城(いのはなじょう)

 猪鼻城は、1126年に千葉常重が大椎城から千葉に移り、1455年に千葉宗家が滅びるまで、千葉氏が本拠としていたお城といわれています。その後も城郭として使われ、城址のある亥鼻公園内に残る土塁や堀切、郭は、戦国時代の遺構と考えられます。
 公園内の中央付近には、近世のお城の天守閣を模した千葉市立郷土博物館が建てられています。
ちなみに、城郭遺跡としての名称は「猪鼻城址」ですが、一帯の行政上の地名は「亥鼻」となっています。

デザインの説明

 御城印は、桓武平氏の名族として知られる千葉氏の家紋「月星紋」「九曜紋」と千葉市立郷土博物館前に立つ千葉常胤公をイメージした騎馬武者像を背景のモチーフとしたものです。
 常胤公は鎌倉幕府の樹立に大きく貢献し、千葉氏中興の祖とされます。

  • いのはな亭:千葉市中央区亥鼻1-6(亥鼻公園内)

道の駅 あずの里いちはら

千葉ポートタワー

まるごとしすい 

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 八千代市

 吉橋城(よしはしじょう)

吉橋城

 吉橋城は印旛沼水系である桑納川の南に位置する台地の先端に築かれました。現在、貞福寺がある台地一帯が吉橋城の城域とされています。貞福寺は真言宗の寺で、応永元年(1394 年)に創建されたとされます。江戸時代に書かれた『貞福寺文書』には吉橋城に関わる記載があったといわれますが、残念ながら現存していないため詳細は不明です。
 吉橋城が築かれた台地の付け根には八幡神社が建っていて、この場所に「大木戸」があったと伝わっています。他にも周辺には「花輪」など、城の存在を連想させる地名が残っています。
 築城年代や城主等の詳細は不明ですが、高木(高城)伊勢守胤貞が城主だったと伝わっています。高木(高城)氏は小金城主高城氏との繋がりが指摘されています。小金城主高城氏は千葉氏の庶流である原氏の家臣であることから、高城氏に繋がる高木(高城)氏が原氏の居城であった臼井城の西方の防衛として吉橋城に入ったことが推察されます。
 貞福寺の北側には土塁で囲まれた曲輪があり、周囲には空堀、櫓台も残っていて、城域はかなりの広さだったと思われます。吉橋城はこの地域の中心的な城郭として、東方2kmの距離にある同じく原氏の家臣村上氏の米本城と連携して機能していたことが考えられます。

デザインの説明

 吉橋城の御城印には、千葉一族の家紋「月星」と「九曜」をデザインしました。吉橋城の周辺には、千葉一族が信仰した「妙見」が祀られ、「妙見橋」などの名が残ります。それらのことからも、伝承の通り、千葉一族の系統と称する高木(高城)氏が城主だった可能性が高いです。
 あわせて、吉橋城が築かれた台地の地形が分かる地図をデザインしました。桑納川などに囲まれた要害であることがわかります。
 吉橋城にはいくつかの落城伝説や合戦の伝承があります。詳細は定かではないものの、地元ではそれらの伝承を大切にしてきました。そのひとつに、吉橋城落城の際にたくさんの血が流れ、それらの戦死者を弔うために祀られたという「血流地蔵」の伝説があります。御城印はその伝承をモチーフにし、お地蔵様の姿を描きました。

まるごとしすい 

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 米本城(よねもとじょう)

米本城

 米本城は新川の東岸に位置する舌状台地に築かれました。後世の土取りによって、先端は原型をとどめていないものの、土塁、土橋、櫓台などの遺構が良好に残っています。
 米本城の東側には「上宿、中宿、下宿」の地名が残っていて、これらの宿の形成は中世まで遡ると思われます。このことからも、米本城が街道に面した要衝に築かれたことが分かります。
 米本城の南西にある根小屋集落の先には、「城橋」の地名が残り、新川を渡る橋が架けられ、渡河点であったことが推察されます。まさに米本城が陸路と水路の結節点を押さえる役目を担っていたことが分かります。
 米本城の築城等の詳細は不明ですが、村上氏の城と伝わっています。村上氏は千葉氏の庶流である原氏の家臣であることから、原氏の居城である臼井城の防衛の役目を担い、米本城に入ったと考えられています。村上綱清が城主のときに落城し、綱清が討ち死、もしくは自害したという伝説も残っています。それらの真偽は定かではありませんが、城内から炭化米が出てきたことや、新川を挟んだ対岸に太田道灌が陣を敷いたという言い伝えがあることなどから米本城がなんらかの戦いの舞台になったことが推察されます。 米本城はこの地域の中心的な城郭として、西方2kmの距離にある同じく原氏の家臣高木(高城)氏の吉橋城と連携して機能していたことが考えられます。

デザインの説明

 米本城の御城印には、千葉一族の家紋「月星」と「九曜」をデザインしました。米本城主村上氏は、鬼門に米本神社、裏鬼門に七百余所神社を置きました。どちらも妙見信仰です。村上氏は千葉一族の出自ではないとされているものの、主筋にあたる原氏の信仰のシンボルを城内に置いたと思われます。村上氏は信濃国村上一族を出自とするとも伝わるため、信濃国村上氏の家紋をデザインし、あわせて飯綱権現をモチーフにしました。米本城と新川を挟んだ対岸に飯綱神社があり、信濃国村上氏は飯綱権現とゆかりが深いことから、信濃国村上氏と米本城主村上氏の繋がりを感じることができます。また、この飯綱神社は太田道灌が陣を置いたという伝承がのこる場所です。
 そして、米本城城山の地形が分かる地図をデザインしました。新川などに囲まれた要害であることがわかります。

まるごとしすい 

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