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更新日:2022年10月20日

ベイエリア

八千代市

 

 市川市

 下総 国府台城(こうのだいじょう)

 国府台城は、旧利根川水系である太日川(現在の江戸川)沿いの標高 25mほどの断崖上に築かれました。 現在は、里見公園として整備され、堀切、空堀跡のなごりと見られる切通し状の坂道などが残っています。公園整備や戦時中の軍隊利用によって、当時の姿からかなり改変されましたが、土塁や櫓台と思われる遺構が確認できます。国府台は、眼下に渡河点があったため、度重なる合戦の舞台となりました。
 文明10年(1478年)、扇谷上杉氏の家宰である太田道灌が長尾景春に与した千葉孝胤(のりたね)を攻めるため、境根原合戦が起きました。その際に道灌が陣城を国府台に構えたと伝わり、この戦いで敗れた孝胤は、臼井城(佐倉市)に退却を余儀なくされます。孝胤追撃のため、文明11年 (1479年)、道灌の弟(一説には甥)の資忠が国府台に城を築いたとされ、この時にはじめて国府台城が本格的に築城されたと考えられています。
 その後は天文7年 (1538年)、小弓公方足利義明が陣を構え北条氏綱と戦った第一次国府台合戦や、永禄7年 (1564年)に北条氏と里見氏が戦った第二次国府台合戦などが繰り広げられ、国府台は度重なる戦いの舞台となりました。その後の城主・城代は不明ですが、国府台城は戦いの度に堅固な城郭として整備されていったと思われます。

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  千葉市

 猪鼻城(いのはなじょう)

 猪鼻城は、1126年に千葉常重が大椎城から千葉に移り、1455年に千葉宗家が滅びるまで、千葉氏が本拠としていたお城といわれています。その後も城郭として使われ、城址のある亥鼻公園内に残る土塁や堀切、郭は、戦国時代の遺構と考えられます。
 公園内の中央付近には、近世のお城の天守閣を模した千葉市立郷土博物館が建てられています。
ちなみに、城郭遺跡としての名称は「猪鼻城址」ですが、一帯の行政上の地名は「亥鼻」となっています。

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 八千代市

 吉橋城(よしはしじょう)

吉橋城

 吉橋城は印旛沼水系である桑納川の南に位置する台地の先端に築かれました。現在、貞福寺がある台地一帯が吉橋城の城域とされています。貞福寺は真言宗の寺で、応永元年(1394 年)に創建されたとされます。江戸時代に書かれた『貞福寺文書』には吉橋城に関わる記載があったといわれますが、残念ながら現存していないため詳細は不明です。
 吉橋城が築かれた台地の付け根には八幡神社が建っていて、この場所に「大木戸」があったと伝わっています。他にも周辺には「花輪」など、城の存在を連想させる地名が残っています。
 築城年代や城主等の詳細は不明ですが、高木(高城)伊勢守胤貞が城主だったと伝わっています。高木(高城)氏は小金城主高城氏との繋がりが指摘されています。小金城主高城氏は千葉氏の庶流である原氏の家臣であることから、高城氏に繋がる高木(高城)氏が原氏の居城であった臼井城の西方の防衛として吉橋城に入ったことが推察されます。
 貞福寺の北側には土塁で囲まれた曲輪があり、周囲には空堀、櫓台も残っていて、城域はかなりの広さだったと思われます。吉橋城はこの地域の中心的な城郭として、東方2kmの距離にある同じく原氏の家臣村上氏の米本城と連携して機能していたことが考えられます。

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 米本城(よねもとじょう)

米本城

 米本城は新川の東岸に位置する舌状台地に築かれました。後世の土取りによって、先端は原型をとどめていないものの、土塁、土橋、櫓台などの遺構が良好に残っています。
 米本城の東側には「上宿、中宿、下宿」の地名が残っていて、これらの宿の形成は中世まで遡ると思われます。このことからも、米本城が街道に面した要衝に築かれたことが分かります。
 米本城の南西にある根小屋集落の先には、「城橋」の地名が残り、新川を渡る橋が架けられ、渡河点であったことが推察されます。まさに米本城が陸路と水路の結節点を押さえる役目を担っていたことが分かります。
 米本城の築城等の詳細は不明ですが、村上氏の城と伝わっています。村上氏は千葉氏の庶流である原氏の家臣であることから、原氏の居城である臼井城の防衛の役目を担い、米本城に入ったと考えられています。村上綱清が城主のときに落城し、綱清が討ち死、もしくは自害したという伝説も残っています。それらの真偽は定かではありませんが、城内から炭化米が出てきたことや、新川を挟んだ対岸に太田道灌が陣を敷いたという言い伝えがあることなどから米本城がなんらかの戦いの舞台になったことが推察されます。 米本城はこの地域の中心的な城郭として、西方2kmの距離にある同じく原氏の家臣高木(高城)氏の吉橋城と連携して機能していたことが考えられます。

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