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更新日:2021年10月4日

かずさ・臨海エリア

 

 旭市

 佐貫城(さぬきじょう)

 佐貫城は波に削られ、消失してしまった幻の城です。佐貫城が築かれていた場所は刑部岬と呼ばれ、現在は飯岡灯台が建っています。このあたりの海岸線は高さ60mほどの崖が直立した地形になっているため、屏風ヶ浦として景勝地になっています。太平洋の荒波に台地が削られ、このような絶景となりました。「東洋のドーバー」と呼ばれ、その美しさを称されています。
 佐貫城が存在したとき、その台地は海に向かって今よりもっと張り出していたといわれています。その天然の要害を利用して、海城が築かれたのでしょう。まさに波に削られた「幻の城」ともいうべくロマンの詰まった城です。
 佐貫城の構造や、使用されていた時期などの詳細は定かではありませんが、昭和60年頃、北方には土塁と思われる遺構など、城の一部が残っていたといいます。
 現在は、残念ながら遺構は残っていませんが、『平家物語』や『源平盛衰記』に佐貫城は登場し、片岡常春が城主だったと書かれています。常春は、「源義経四天王」として浮世絵などにも描かれている人気の高い人物で、義経に同行し戦ったとされています。その常春の武勇とともに、「佐貫城」の名は歴史に刻まれているのです。
 それ以降の歴史は不明ながらも、海上の重要地にあたる佐貫城は何らかの形で取り立てられたかもしれません。今は偲ぶべくもありませんが、現地に立つと、大海原に突き出した城の姿が浮かんでくるようです。

デザインの説明

 佐貫城の城主とされている片岡常春は『吾妻鏡』にも登場し、三崎庄(旭市)などを領したといいます。しかし、常陸国佐竹氏と縁戚関係だったことから、たびたび源頼朝への謀反の疑いをかけられ、領地を没収されました。そのときに、佐貫城を攻めたのが千葉常胤と伝わります。片岡氏も千葉氏と同じ出身とされるため、御城印には千葉一族の家紋「九曜」を配置し、さらに美しくそびえ立つ断崖を描きました。
 『平家物語』では、常春が壇ノ浦の戦いで武功をあげ、海に落ちた神璽を拾い上げたと描かれていることから、壇ノ浦にて戦う源義経一行の船をデザインしました。
 『義経記』では義経の都落ちに従い奥州に行き、勇猛果敢に義経と一緒に戦ったとされ、片岡常春の
武勇は時代を超えて語り継がれました。

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 長部城(ながぺじょう)

 長部城は旭市北部の長部地区西側台地上に築かれました。現在、大原幽学記念館が建っている一帯が長部城にあたります。この台地は西方の広大な台地から東に向かって半島状に突き出していて、西側以外は水田地帯になっており、長部城の周辺は当時湿地だったと思われます。「要害」から変化したであろう「龍ヶ谷(ゆうがい)」と呼ばれていた地であることからも、要害性が高いことが見てとれます。
 築城年代などの詳細は不明ですが、千葉一族である松澤氏が城主だったと伝わっています。松澤氏は千葉常胤の子、国分胤通の一族であると伝わり、松澤荘を領して「松澤」を名乗ったとされ、9代に渡り続いたともいわれています。
 落城廃城の時期も不明ですが、天正18年(1590年)に千葉氏が属していた小田原北条氏の小田原城が陥落すると、それに伴い長部城も城としての役目を終えたと考えられます。
 城内には戦国期と思われる空堀、土塁、櫓台などが残っています。特に、城内南東に残る櫓台からは、直下に通る街道や長部城の周辺を見渡すことができます。幕末に改変されているものの、土塁に囲まれた方形の曲輪なども良好に残っています。

デザインの説明

 現在、長部城は大原幽学記念館が建ち、史跡公園として管理されています。
幕末の農村指導者として名高い大原幽学は、尾張藩大道寺家の出身と伝わります。幽学は諸国を遊学した後、天保6年(1835年)以降は長部村名主遠藤氏の依頼を受け、長部城の跡地を活動の拠点にしました。幽学は、「先祖株組合」と呼ばれる世界初の塁業組合をつくった人物です。さらに、道徳と経済の調和を基本とした「性学」という独自の思想のもと、長部村の農村改革を指導しました。
 御城印は、幽学が指導に当たっていた教導所「改心楼」の絵図をモチーフにしました。また、この改心楼は長部城当時の要害地形が生かされていて、幽学自身も城の遺構である土塁や空堀、櫓台を好んで利用していたと伝わります。
しかし、人を集めていたこと、改心楼が城郭のように見えたことなどから、幽学は幕府の嫌疑を受け、取り調べられ、 有罪となりました。そして、安政5年(1858年)3月、幽学は失意のうちに自害しました。
 御城印は長部城の姿を残したまま建てられた改心楼の絵図をモチーフにするとともに、千葉一族の家紋「月星」、そして、要害性のわかる地図をデザインしました。

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  • 季楽里あさひ:千葉県旭市イの5238番地
    電話:0479-62-0888
    営業時間 9時00分~17時00分 年中無休

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 見広城(みびろじょう)

 見広城はかつての椿の海を臨む要害山と呼ばれる段丘上に築かれました。椿の海の北東に位置し、半島状の台地となっています。椿の海は江戸時代に鉄牛和尚が干拓し、干潟八万石と呼ばれる広大な水田地帯となりました。
築城主、築城年代などの詳細は不明ですが、今に残る遺構は15世紀以降のものと考えられています。櫓台、空堀、土塁が良好に残り、堀添、桝形、矢通、新堀込、井堀など城と関連する地名も残っています。
 地元の伝承や、「海上郡誌」などによると、城主は嶋田三河守を名乗った一族とされ、周辺には「嶋田」姓が多く残ります。嶋田氏は千葉氏に属していたと考えられ、見広城の東8kmほどの距離に千葉氏の一族である海上氏の本城「中島城(海上城)」、見広城の北8kmほどの距離に千葉氏の一族東氏の城「沼闕城」があることからも海上氏と東氏との関係も推察できます。それぞれが連携して、機能していたと思われます。
 見広城の落城については諸説ありますが、永禄年間の正木時忠による下総侵攻の際に、落城したと考えられています。 永禄3年 (1560年)から永禄9年 (1566年)にかけて正木軍が下総に侵攻し、各地で合戦がおきました。その際に、見広城は中島城などとともに攻められ落城したという記録が残ります。旭市野中の長禅寺本尊愛染明王坐像の胎内済書銘によると、永禄8年 (1565年)、長禅寺付近一帯で激しい戦闘があり、寺は猛火で全焼したと記されていて、この地域で戦闘行為があったことがわかります。
 正木氏の下総侵攻についても諸説あり、見広城が永禄年間以外にも正木氏の侵攻に際し、戦闘行為に及び、落城した可能性も指摘されています。
 見広城の南麓には「川岸田」という地名も残り、このあたりが「港津」であった可能性もあり、見広城が水運の掌握を担う側面もあったと指摘されています。

デザインの説明

 見広城に隣接するように雷神社が鎮座しています。雷神社の地は小字が「東海道」で、そのことからもこの地が交通の要衝だったことが推察できます。雷神社の創建は不明ですが、延喜式にその名が見え、奈良時代にはすでに存在していたと思われます。
 また、最行天皇が皇子であるヤマトタケルの追慕のために東国に下向し、椿の海を見下ろすこの地に立ち、一社を創連したとの伝説も残ります。この伝説からも、この地が古代からの水上交通の要衝であった姿が垣間見えます。御城印には地形のわかる地図をモチーフにし、城主と伝わる嶋田三河守の家紋「丸に三割り桜」と、主筋にあたる千葉一族の家紋「九曜」をデザインしました。

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 一宮町

 一宮城(いちのみやじょう)

 一宮城は「一宮城址」として、千葉県長生郡一宮町の町指定史跡になっています。築城主、築城時期などは不明ですが、水陸の要衝地にある一宮城は戦国期には何度も戦乱の舞台となり、今に残る禁制などの資料がその歴史を伝えてくれます。

 永禄7年(1564年)、里見氏の配下で、一宮城主だった一宮正木氏を北条側についた勝浦正木氏が攻め滅ぼしました。そして、勝浦正木氏が一宮城に入りますが、その後も里見氏と北条氏の争いの中で城主が変わり、そのたびに一宮城は戦火にさらされました。

 一宮城は二度の発掘調査が行われており、庭園遺構や大名などの高貴な位に使用が限られている箸置台「耳河原家」が出土しており、一宮城が外房の拠点クラスの城郭であったことが推測できます。

 天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原攻めの際は、里見氏の家臣鶴見甲斐守が城主だったことが史料に見え、合戦後は関東に移封となった徳川家康氏家臣の本多忠勝が大多喜城に入りこの地域を統括したため、一宮城は役目を終え、廃城となりました。その後、江戸時代中期に伊勢八田藩の領地となり、文政9年(1826年)には江戸湾警備の面から八田藩が陣屋を築き、一宮藩として明治の世を迎えることとなります。

デザインの説明

 上総国一宮玉前神社は一宮城下に鎮座しており、その玉前神社の祭神「玉依姫」が上陸したと伝わる釣ヶ崎海岸の鳥居を御城印にデザインしました。一宮城にとって、いつの時代も玉前神社が聖地として存在していたと推測でき、その祭神である「玉依姫」が上陸した釣ヶ崎海岸もまた聖地といえます。

 そして、平安時代から上総国を納めた名族上総氏と戦国時代の城主正木氏、そして里見氏の家紋を配置しました。

 一宮エリアは平安時代から鎌倉時代にかけては名族上総氏の領地であり、上総広常が源頼朝と源氏の繁栄を祈り、鎧を奉納したと伝わるのがここ玉前神社なのです。広常奉納の鎧は現存していませんが、この故事に倣い、一宮藩主加納久微(ひさあきら)は玉前神社に鎧を寄贈しました。その鎧が現在、町指定文化財になっており、これを御城印にデザインしています。

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 高藤山城(たかとうやまじょう)

 高藤山城は「高藤山城址」として、千葉県長生郡一宮町の町指定史跡になっています。標高約80mの険しい崖などの自然の地形を生かして作られた山城です。頂上からは一宮城や勝見城など、周辺の重要拠点を眼下に見下ろすことができ、高藤山城がこのあたりの戦略拠点であったことが推測できます。

 城下には、番細工、軍抜台、売場、鐙ヶ谷など、武器製造に関係する地名が残っていて、城が機能していた頃の様子を想像することができます。

 伝承では、平安時代からの名族であり、鎌倉時代の雄、上総広常の居城とも伝わりますが築城主、築城年代、廃城年代は不明です。広常の居館の場所は諸説ありますが、一宮城下の玉前神社に鎧の奉納をしたことや、高藤山城に残る伝承などから、一宮から高藤山にかけて、広常をはじめとする上総氏の存在が色濃く浮かび上がってきます。

 今に残る城の遺構は戦国時代以降のもので、城の麓から急な坂を登っていくと尾根を分析する堀切や土塁が良好に残っています。一宮に正木氏が入り、一宮城が度重なる戦乱の舞台となると、高藤山城もなんらかの形で要害化され、城郭として取り立てられたと考えられます。

デザインの説明

 高藤山城の御城印は、伝承に因み上総広常をモチーフにしました。文久2年(1862年)に一宮藩主・加納久微(ひらあきら)が広常の功績をたたえて石碑を作りました。その石碑は今も高藤山城の山頂で「古蹟の碑」とよばれ地元の人に親しまれています。

 城の麓には水田が広がり、今も昔も変わらない美しい情景を思い描くことができることから、広常の絵は水田をイメージし黄緑色にしました。

 そして、平安時代から上総国を治めた名族上総氏の家紋「九曜紋」と、戦国時代の一宮城主正木氏の家紋「三つ引両」を配置しました。正木氏は一宮に入ると、周辺の城郭を整備し、戦いに備えたと思われます。 

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 山武市

 成東城(なるとうじょう)

 成東城は九十九里平野を臨む標高45mほどの台地に築かれました。現在は城の中心部が成東城跡公園として整備されています。
 作田川が近くを流れ、現在はその支流が成東城の裾野を囲むように流れています。成東城は台地全体を利用して築かれていて、現地を歩くとその規模を感じることができます。さらに、台地東南にあたる九十九里海岸方面には遮る丘陵が全くなく、成東城が水上交通の要であったことが見て取れます。
 成東城は鎌倉時代以降、この地を治めていた印東氏が築城したとも伝わりますが、今に残る遺構は16世紀以降のものと考えられています。
 1450 年代に印東氏がこの地を支配しなくなった後は本佐倉城を拠点にした馬加千葉氏の勢力下になり、千葉勝胤の子、胤定(鳴戸八郎)が城主として成東地域を治めたといいます。
 永禄12年(1569 年)頃には正木氏による下総侵攻があり、成東城もその混乱に巻き込まれたと思われ、そういった状況下で改修されながら機能したと思われます。
 台地全体を利用して築かれた成東城は、本佐倉城や土気城などといった両総の主要城郭に匹敵する規模であることからも、この地にこれほどの城を築ける勢力がいたことを物語る城といえます。
 天正18年(1590年)に豊臣秀吉が小田原城の北条氏を攻めると、成東千葉氏当主の将胤は北条方として戦い、討ち死にしました。
 小田原北条氏が滅亡し、徳川家康が関東に入封すると成東には家康配下の石川康通や青山忠成などが配属されましたが、元和6 年(1620年)に廃城となりました。

デザインの説明

 宅地化が進み、一部は破壊されているものの、成東城には遺構が良好に残っています。土塁、空堀、虎口、切岸などの防御が施され、堅固な城であったことがわかります。主郭は三方に土塁を巡らし、取り囲む空堀も折れを伴い、防御制を高めていることが見て取れます。
 戦国期の姿を色濃く残す成東城の御城印には、台地全体を城郭化し広大な城域を誇る成東城の地形がわかる地図と縄張図をモチーフにしました。
 鎌倉時代からこの地を領有していた千葉氏の家紋「月星」と「九曜」、そして、享徳の乱を契機とし、主家を滅ばし千葉氏当主となった馬加千葉氏の家紋「月星(星が真上)」をデザインしました。

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 匝瑳市

 八日市場城(ようかいちばじょう)

 八日市場城はJR八日市場駅の北側、現在は天神山公園となっている丘陵上に築かれました。台地周囲は断崖になっており、天然の要害となっています。南方約8kmの位置に九十九里浜が広がる水運の要衝で、当時は今よりも海岸線が迫っていたと推測でき、城山の周辺は低湿地帯だったと思われます。
 築城年代等の詳細は定かではありませんが、千葉氏家臣の押田(おしだ)氏の居城と考えられています。調査によると複数の堀が検出され、16世紀代の在地の土器等の遺物が出土していることから、八日市場城は押田氏の勢力拡大に伴い取り立てられた城と思われます。城を整備し、そして、押田氏ゆかりの寺院である福善寺が城下にあり、八日市場の宿が形成されていったと考えられます。
 調査により大規模な改修がされたこともわかっており、千葉氏が小田原北条氏に属す戦国時代末期の状況の中、千葉氏家臣である押田氏の城も軍事的緊張下の中で改修されたと推察できます。

デザインの説明

 八日市場城城主の押田氏はもとは源氏の出自と伝わり、鎌倉時代に三浦一族が滅びた宝治合戦(1247年)で三浦方について一族が討ち死にしたといいます。その子孫が千葉氏に暦われたことから千葉氏の重臣となり、押田氏を名乗ったとされます。
 その後、戦国時代になると、主君千葉輔胤の娘を妻にもらい、千葉一族の家紋である九曜を模した「丸九曜」を家紋としました。御城印には、その「丸九曜」ともう一つの押田氏の家紋である「五三の桐」を配置しました。
 城山には櫓台の遺構が残り、南方向には九十九里浜の海が見えます。水陸交通の要衝で、眼下には街道が通り、城下に形成された宿も見えたことでしょう。御城印には現地に立つ櫓のような展望台をモチーフにし、周辺の地図をデザインしました。

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 横芝光町

 坂田城(さかたじょう)

 坂田城は九十九里平野に突出した標高30mの台地上に築かれました。古代から水運の要であった栗山川の作り出した低湿地や点在する沼地に囲まれた要害の地です。
 坂田城は、はじめ千葉庶流の三谷氏によって築かれた後、16世紀半ばに小田原北条氏の息のかかった芝山大台城主井田氏に押領され、改修整備されました。これは南の里見氏、北の佐竹氏に対し、小田原北条氏の戦略的な要地を押さえる目的があったものと思われ、配下となった千葉氏を介して井田氏を配置したと推定されます。
 小田原北条氏支配となった坂田城は、天正8(1590)年、豊臣秀吉の小田原攻めにあって落城しました。 その後、井田氏は北条氏を離れて徳川家康の5男武田信吉に仕え、その移封に従って水戸へと移り、水戸徳川家の家臣となりました。

デザインの説明

 周囲を湿地や沼地に囲まれた堅固な要害とした坂田城の御城印には、今でも城の直下にある坂田池と城山をデザインしました。大規模な直線連郭式の城郭遺構が台地上に残るのが遠目に見ても想像できる特徴的な地形です。
 坂田城の大部分は、現在、畑等になっているものの、16世紀後半の遺構と思われるダイナミックな空堀、土塁などが良好に残っています。横矢掛を要所に構えたり、大手口は食い違い木戸口とする戦国期の城の姿を見ることができ、特に主郭へのアプローチは、物見台を直角に遠回りする造りとなっています。 坂田城は千葉県下でも代表的な城郭といえることから、御城印には良好に戦国期の遺構を残す坂田城の縄張図をモチーフにしました。

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  • 横芝駅前情報交流館「ヨリドコロ」/〒289-1732 千葉県山武郡横芝光町横芝1355番地2
    TEL 0479-74-8585

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旅して集めよう!千葉県の御城印!

ベイエリア

東葛飾エリア

北総エリア

九十九里エリア

南房総エリア

かずさ・臨海エリア

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ここに集めよう!千葉県の御城印帳

下総多古 御城印帳

  •  【販売場所】多古 道の駅あじさい館:多古町多古1069-1

館山城 御城印帳

  • 【販売場所】館山城館山市立博物館受付:館山市館山351-2 城山公園内

大多喜城 御城印帳

  • 【販売場所】大多喜町観光本陣:夷隅郡大多喜町大多喜270-1(いすみ鉄道大多喜駅前)
  • 【販売場所】大多喜城分館(千葉県立中央博物館):夷隅郡大多喜町大多喜481

猪鼻城 御城印帳

  •  【販売場所】いのはな亭:千葉市中央区亥鼻1-6(亥鼻公園内)

南房総市/南総里見八犬伝御城印帳

【販売場所】

 

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▽いくつかの千葉県「御城印」デザインを手掛ける「山城ガールむつみ」さん▽

  • 山城ガールむつみさんからのメッセージ

千葉県はたくさんの城跡があり、歴史の宝庫です。
千葉氏、里見氏に代表されるような、面白くドラマチックな歴史が満載です。
今ブームになっている「御城印」が地域の歴史や城を知り、大事に思うきっかけになれば嬉しいです。
これからもカッコよく素敵なデザインの御城印が続々と発行されますのでお楽しみに!