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更新日:2022年6月25日

九十九里エリア

 

 旭市

 網戸城(あじどじょう)

 網戸城は九十九里平野の微高地に築かれました。この地は、北方に椿の海、南方は太平洋という水上交通の発達した地域です。
 現在の東漸寺周辺一帯が網戸城の城域とされていて、主郭は東漸寺の西方、字「城之内」付近と考えられています。主郭と思われる箇所の南方には、「上宿」の集落が形成され、そこから城内へ続く道はクランクしていることからも、防衛線として機能していたことが推察できます。網戸城の規模や構造などは明らかになっていないものの、東漸寺には空堀や土塁などが残っています。
 網戸城の築城主や築城年代などは不明ですが、応永年間(1394年-1418年)頃の築城とも、小田原北条氏の家臣大橋山城守康忠によって築かれたとも伝わります。
 天正18年(1590年)の小田原の役の後、徳川家康の関東移封に伴い、木曽義昌が下総国阿知戸一万石に入りました。義昌は、近隣の福昌寺を仮陣屋とし、翌年に網戸城を改修整備し、居城としたとされています。義昌の死後、嫡男の義利が跡を継ぎましたが、慶長5年(1600年)に義利が叔父を殺害。それにより、家康から追放され、廃藩、廃城となり、その封地は幕府の直轄地となりました。

デザインの説明

 木曽義昌は、信濃国木曽谷の領主木曽氏の第19代当主でした。弘治元年(1555年)に武田信玄に降って、その娘を妻としました。その後、織田氏、豊臣氏に属しますが、小田原の役の際に、自身の病気を理由に嫡男義利を出陣させたことから疑惑を持たれ、阿知戸に転封されたといわれています。
 阿知戸において、善政を行い、城下の繁栄に心を砕いた義昌は、文禄4年(1595年)に没し、遺言により、その遺体は椿の海に水葬されました。
 義昌は、木曽義仲(源義仲)の後裔と伝わっています。義仲は清和源氏源為義の孫にあたり、源頼朝の挙兵に呼応し、打倒平家の兵を挙げました。義仲は上洛の際、倶利伽羅峠の戦いで平家方に大勝し破竹の勢いで進軍したことから、朝日の昇る勢いになぞらえて、「朝日将軍」と称せられました。
 江戸時代に、国学者の野々口隆正が木曽義昌の旧跡を訪れた際、義仲とその後裔である義昌を懐古して、「信濃より いづる旭をしたひ来て 東のくにに跡とどめけむ」と詠んだといい、この和歌が旭市の由来となっているといいます。
 御城印には、市名の元になった「朝日」をモチーフにするとともに、木曽義仲の銅像をモチーフにしました。さらに、義昌の肖像画、兜(伝木曽義昌兜・東漸寺蔵)をデザインしました。

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 鏑木城(かぶらぎじょう)

 鏑木城は下総台地の北東端に位置し、南側にはかつて存在した「椿の海」が広がっていました。椿の海は寛文10 年(1670年)に干拓が開始され、「干潟八万石」と呼ばれる水田地帯になりました。椿の海に面していた南側には「ネコヤ」と呼ばれる場所があり、さらに「岸湖」という字名が残っています。そのことからも、鏑木城が椿の海を利用した水上交通の要衝に築かれたことがよく分かります。
 鏑木城は周辺の台地を城域に取り込むような形で築城されており、広義の城域は東西1000m、南北800mに及ぶことが発掘調査によって判明しました。空堀、土塁、櫓台が良好に残り、周辺には「北門」「馬場」などの字名も残っています。「内宿」の字名が残る北側集落は、当時の城下集落の形態をとどめています。さらに、主郭からネコヤ地区に下りる大手と思われる道筋が残っており、その道に沿って5段の腰曲輪が築かれています。このルートに対する備えのほどが見て取れます。
 鏑木城の詳細は不明ですが、鏑木氏の居城とされ、鏑木氏は戦国時代に主筋の千葉氏を通して小田原北条氏に属しました。天正18年(1590年)の小田原の役の後、鏑木城は徳川家康によって接収され、その後、廃城になりました。

デザインの説明

 椿の海に面し、急崖に囲まれた鏑木城の御城印は、周辺の地形が分かる地図を描きました。鏑木城は、中世においては東総地方の代表的な城郭だったと思われます。諸大名による諸家文書には、「かぶらぎ城 三百騎」と書かれていて、鏑木城が小田原の役まで機能していたことが分かっています。
 鏑木氏の祖は『千葉大系図』によると、千葉胤定といわれています。胤定は千葉常胤の孫、胤時の子で、寛喜年間(1229年―1232年)に鏑木の地に入り、鏑木胤定を名乗ったと伝わります。鏑木氏は千葉城主代々の四天家老にその名があり、常に重要な役割を果たしていたことが分かります。御城印は、鏑木氏の祖と伝わる鏑木胤定の肖像画をモチーフにし、あわせて、千葉一族の家紋「九曜」、鏑木氏の家紋「月星」を配置しました。

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 佐貫城(さぬきじょう)

 佐貫城は波に削られ、消失してしまった幻の城です。佐貫城が築かれていた場所は刑部岬と呼ばれ、現在は飯岡灯台が建っています。このあたりの海岸線は高さ60mほどの崖が直立した地形になっているため、屏風ヶ浦として景勝地になっています。太平洋の荒波に台地が削られ、このような絶景となりました。「東洋のドーバー」と呼ばれ、その美しさを称されています。
 佐貫城が存在したとき、その台地は海に向かって今よりもっと張り出していたといわれています。その天然の要害を利用して、海城が築かれたのでしょう。まさに波に削られた「幻の城」ともいうべくロマンの詰まった城です。
 佐貫城の構造や、使用されていた時期などの詳細は定かではありませんが、昭和60年頃、北方には土塁と思われる遺構など、城の一部が残っていたといいます。
 現在は、残念ながら遺構は残っていませんが、『平家物語』や『源平盛衰記』に佐貫城は登場し、片岡常春が城主だったと書かれています。常春は、「源義経四天王」として浮世絵などにも描かれている人気の高い人物で、義経に同行し戦ったとされています。その常春の武勇とともに、「佐貫城」の名は歴史に刻まれているのです。
 それ以降の歴史は不明ながらも、海上の重要地にあたる佐貫城は何らかの形で取り立てられたかもしれません。今は偲ぶべくもありませんが、現地に立つと、大海原に突き出した城の姿が浮かんでくるようです。

デザインの説明

 佐貫城の城主とされている片岡常春は『吾妻鏡』にも登場し、三崎庄(旭市)などを領したといいます。しかし、常陸国佐竹氏と縁戚関係だったことから、たびたび源頼朝への謀反の疑いをかけられ、領地を没収されました。そのときに、佐貫城を攻めたのが千葉常胤と伝わります。片岡氏も千葉氏と同じ出身とされるため、御城印には千葉一族の家紋「九曜」を配置し、さらに美しくそびえ立つ断崖を描きました。
 『平家物語』では、常春が壇ノ浦の戦いで武功をあげ、海に落ちた神璽を拾い上げたと描かれていることから、壇ノ浦にて戦う源義経一行の船をデザインしました。
 『義経記』では義経の都落ちに従い奥州に行き、勇猛果敢に義経と一緒に戦ったとされ、片岡常春の
武勇は時代を超えて語り継がれました。

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 長部城(ながぺじょう)

 長部城は旭市北部の長部地区西側台地上に築かれました。現在、大原幽学記念館が建っている一帯が長部城にあたります。この台地は西方の広大な台地から東に向かって半島状に突き出していて、西側以外は水田地帯になっており、長部城の周辺は当時湿地だったと思われます。「要害」から変化したであろう「龍ヶ谷(ゆうがい)」と呼ばれていた地であることからも、要害性が高いことが見てとれます。
 築城年代などの詳細は不明ですが、千葉一族である松澤氏が城主だったと伝わっています。松澤氏は千葉常胤の子、国分胤通の一族であると伝わり、松澤荘を領して「松澤」を名乗ったとされ、9代に渡り続いたともいわれています。
 落城廃城の時期も不明ですが、天正18年(1590年)に千葉氏が属していた小田原北条氏の小田原城が陥落すると、それに伴い長部城も城としての役目を終えたと考えられます。
 城内には戦国期と思われる空堀、土塁、櫓台などが残っています。特に、城内南東に残る櫓台からは、直下に通る街道や長部城の周辺を見渡すことができます。幕末に改変されているものの、土塁に囲まれた方形の曲輪なども良好に残っています。

デザインの説明

 現在、長部城は大原幽学記念館が建ち、史跡公園として管理されています。
幕末の農村指導者として名高い大原幽学は、尾張藩大道寺家の出身と伝わります。幽学は諸国を遊学した後、天保6年(1835年)以降は長部村名主遠藤氏の依頼を受け、長部城の跡地を活動の拠点にしました。幽学は、「先祖株組合」と呼ばれる世界初の塁業組合をつくった人物です。さらに、道徳と経済の調和を基本とした「性学」という独自の思想のもと、長部村の農村改革を指導しました。
 御城印は、幽学が指導に当たっていた教導所「改心楼」の絵図をモチーフにしました。また、この改心楼は長部城当時の要害地形が生かされていて、幽学自身も城の遺構である土塁や空堀、櫓台を好んで利用していたと伝わります。
しかし、人を集めていたこと、改心楼が城郭のように見えたことなどから、幽学は幕府の嫌疑を受け、取り調べられ、 有罪となりました。そして、安政5年(1858年)3月、幽学は失意のうちに自害しました。
 御城印は長部城の姿を残したまま建てられた改心楼の絵図をモチーフにするとともに、千葉一族の家紋「月星」、そして、要害性のわかる地図をデザインしました。

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 見広城(みびろじょう)

 見広城はかつての椿の海を臨む要害山と呼ばれる段丘上に築かれました。椿の海の北東に位置し、半島状の台地となっています。椿の海は江戸時代に鉄牛和尚が干拓し、干潟八万石と呼ばれる広大な水田地帯となりました。
築城主、築城年代などの詳細は不明ですが、今に残る遺構は15世紀以降のものと考えられています。櫓台、空堀、土塁が良好に残り、堀添、桝形、矢通、新堀込、井堀など城と関連する地名も残っています。
 地元の伝承や、「海上郡誌」などによると、城主は嶋田三河守を名乗った一族とされ、周辺には「嶋田」姓が多く残ります。嶋田氏は千葉氏に属していたと考えられ、見広城の東8kmほどの距離に千葉氏の一族である海上氏の本城「中島城(海上城)」、見広城の北8kmほどの距離に千葉氏の一族東氏の城「沼闕城」があることからも海上氏と東氏との関係も推察できます。それぞれが連携して、機能していたと思われます。
 見広城の落城については諸説ありますが、永禄年間の正木時忠による下総侵攻の際に、落城したと考えられています。 永禄3年 (1560年)から永禄9年 (1566年)にかけて正木軍が下総に侵攻し、各地で合戦がおきました。その際に、見広城は中島城などとともに攻められ落城したという記録が残ります。旭市野中の長禅寺本尊愛染明王坐像の胎内済書銘によると、永禄8年 (1565年)、長禅寺付近一帯で激しい戦闘があり、寺は猛火で全焼したと記されていて、この地域で戦闘行為があったことがわかります。
 正木氏の下総侵攻についても諸説あり、見広城が永禄年間以外にも正木氏の侵攻に際し、戦闘行為に及び、落城した可能性も指摘されています。
 見広城の南麓には「川岸田」という地名も残り、このあたりが「港津」であった可能性もあり、見広城が水運の掌握を担う側面もあったと指摘されています。

デザインの説明

 見広城に隣接するように雷神社が鎮座しています。雷神社の地は小字が「東海道」で、そのことからもこの地が交通の要衝だったことが推察できます。雷神社の創建は不明ですが、延喜式にその名が見え、奈良時代にはすでに存在していたと思われます。
 また、最行天皇が皇子であるヤマトタケルの追慕のために東国に下向し、椿の海を見下ろすこの地に立ち、一社を創連したとの伝説も残ります。この伝説からも、この地が古代からの水上交通の要衝であった姿が垣間見えます。御城印には地形のわかる地図をモチーフにし、城主と伝わる嶋田三河守の家紋「丸に三割り桜」と、主筋にあたる千葉一族の家紋「九曜」をデザインしました。

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 一宮町

 一宮城(いちのみやじょう)

 一宮城は「一宮城址」として、千葉県長生郡一宮町の町指定史跡になっています。築城主、築城時期などは不明ですが、水陸の要衝地にある一宮城は戦国期には何度も戦乱の舞台となり、今に残る禁制などの資料がその歴史を伝えてくれます。

 永禄7年(1564年)、里見氏の配下で、一宮城主だった一宮正木氏を北条側についた勝浦正木氏が攻め滅ぼしました。そして、勝浦正木氏が一宮城に入りますが、その後も里見氏と北条氏の争いの中で城主が変わり、そのたびに一宮城は戦火にさらされました。

 一宮城は二度の発掘調査が行われており、庭園遺構や大名などの高貴な位に使用が限られている箸置台「耳河原家」が出土しており、一宮城が外房の拠点クラスの城郭であったことが推測できます。

 天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原攻めの際は、里見氏の家臣鶴見甲斐守が城主だったことが史料に見え、合戦後は関東に移封となった徳川家康氏家臣の本多忠勝が大多喜城に入りこの地域を統括したため、一宮城は役目を終え、廃城となりました。その後、江戸時代中期に伊勢八田藩の領地となり、文政9年(1826年)には江戸湾警備の面から八田藩が陣屋を築き、一宮藩として明治の世を迎えることとなります。

デザインの説明

 上総国一宮玉前神社は一宮城下に鎮座しており、その玉前神社の祭神「玉依姫」が上陸したと伝わる釣ヶ崎海岸の鳥居を御城印にデザインしました。一宮城にとって、いつの時代も玉前神社が聖地として存在していたと推測でき、その祭神である「玉依姫」が上陸した釣ヶ崎海岸もまた聖地といえます。

 そして、平安時代から上総国を納めた名族上総氏と戦国時代の城主正木氏、そして里見氏の家紋を配置しました。

 一宮エリアは平安時代から鎌倉時代にかけては名族上総氏の領地であり、上総広常が源頼朝と源氏の繁栄を祈り、鎧を奉納したと伝わるのがここ玉前神社なのです。広常奉納の鎧は現存していませんが、この故事に倣い、一宮藩主加納久微(ひさあきら)は玉前神社に鎧を寄贈しました。その鎧が現在、町指定文化財になっており、これを御城印にデザインしています。

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 高藤山城(たかとうやまじょう)

 高藤山城は「高藤山城址」として、千葉県長生郡一宮町の町指定史跡になっています。標高約80mの険しい崖などの自然の地形を生かして作られた山城です。頂上からは一宮城や勝見城など、周辺の重要拠点を眼下に見下ろすことができ、高藤山城がこのあたりの戦略拠点であったことが推測できます。

 城下には、番細工、軍抜台、売場、鐙ヶ谷など、武器製造に関係する地名が残っていて、城が機能していた頃の様子を想像することができます。

 伝承では、平安時代からの名族であり、鎌倉時代の雄、上総広常の居城とも伝わりますが築城主、築城年代、廃城年代は不明です。広常の居館の場所は諸説ありますが、一宮城下の玉前神社に鎧の奉納をしたことや、高藤山城に残る伝承などから、一宮から高藤山にかけて、広常をはじめとする上総氏の存在が色濃く浮かび上がってきます。

 今に残る城の遺構は戦国時代以降のもので、城の麓から急な坂を登っていくと尾根を分析する堀切や土塁が良好に残っています。一宮に正木氏が入り、一宮城が度重なる戦乱の舞台となると、高藤山城もなんらかの形で要害化され、城郭として取り立てられたと考えられます。

デザインの説明

 高藤山城の御城印は、伝承に因み上総広常をモチーフにしました。文久2年(1862年)に一宮藩主・加納久微(ひらあきら)が広常の功績をたたえて石碑を作りました。その石碑は今も高藤山城の山頂で「古蹟の碑」とよばれ地元の人に親しまれています。

 城の麓には水田が広がり、今も昔も変わらない美しい情景を思い描くことができることから、広常の絵は水田をイメージし黄緑色にしました。

 そして、平安時代から上総国を治めた名族上総氏の家紋「九曜紋」と、戦国時代の一宮城主正木氏の家紋「三つ引両」を配置しました。正木氏は一宮に入ると、周辺の城郭を整備し、戦いに備えたと思われます。 

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 山武市

 成東城(なるとうじょう)

 成東城は九十九里平野を臨む標高45mほどの台地に築かれました。現在は城の中心部が成東城跡公園として整備されています。
 作田川が近くを流れ、現在はその支流が成東城の裾野を囲むように流れています。成東城は台地全体を利用して築かれていて、現地を歩くとその規模を感じることができます。さらに、台地東南にあたる九十九里海岸方面には遮る丘陵が全くなく、成東城が水上交通の要であったことが見て取れます。
 成東城は鎌倉時代以降、この地を治めていた印東氏が築城したとも伝わりますが、今に残る遺構は16世紀以降のものと考えられています。
 1450 年代に印東氏がこの地を支配しなくなった後は本佐倉城を拠点にした馬加千葉氏の勢力下になり、千葉勝胤の子、胤定(鳴戸八郎)が城主として成東地域を治めたといいます。
 永禄12年(1569 年)頃には正木氏による下総侵攻があり、成東城もその混乱に巻き込まれたと思われ、そういった状況下で改修されながら機能したと思われます。
 台地全体を利用して築かれた成東城は、本佐倉城や土気城などといった両総の主要城郭に匹敵する規模であることからも、この地にこれほどの城を築ける勢力がいたことを物語る城といえます。
 天正18年(1590年)に豊臣秀吉が小田原城の北条氏を攻めると、成東千葉氏当主の将胤は北条方として戦い、討ち死にしました。
 小田原北条氏が滅亡し、徳川家康が関東に入封すると成東には家康配下の石川康通や青山忠成などが配属されましたが、元和6 年(1620年)に廃城となりました。

デザインの説明

 宅地化が進み、一部は破壊されているものの、成東城には遺構が良好に残っています。土塁、空堀、虎口、切岸などの防御が施され、堅固な城であったことがわかります。主郭は三方に土塁を巡らし、取り囲む空堀も折れを伴い、防御制を高めていることが見て取れます。
 戦国期の姿を色濃く残す成東城の御城印には、台地全体を城郭化し広大な城域を誇る成東城の地形がわかる地図と縄張図をモチーフにしました。
 鎌倉時代からこの地を領有していた千葉氏の家紋「月星」と「九曜」、そして、享徳の乱を契機とし、主家を滅ばし千葉氏当主となった馬加千葉氏の家紋「月星(星が真上)」をデザインしました。

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 埴谷城(はにやじょう)

埴谷城(はにやじょう)

 埴谷城は山武市内を南北に流れる境川の左岸に広がる台地上に築かれました。標高は40mほどですが、周囲はかつて水田となっていて、湿地に囲まれた要害です。
 台地の突端を利用し、地形に沿った五角形の単郭構造となっていて、腰曲輪が周りを囲んでいます。折れを伴う土塁や堀の痕跡が見て取れます。
 築城等の詳細は不明ですが、上杉禅秀家臣の埴谷氏や、千葉一族宍倉氏との関連が指摘されています。
 埴谷氏は、秩父平氏を出自とすると伝わり、関東管領を務める家柄の犬懸上杉氏の執事だったといわれています。犬懸上杉氏は上総国守護を務めていたため、埴谷氏がいずれかの段階で上総国埴谷に入植したと考えられます。重氏の代に、主人である犬懸上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方足利持氏に対して反乱を起こした「上杉禅秀の乱(1416 年)」が勃発しました。翌年、乱は鎮圧され、禅秀は鎌倉で自害しましたが、上総国内で禅秀方の残党が処遇に対する不満から上総本一揆とよばれる一揆を形成し、鎌倉府の軍勢と戦いました。その上総本一揆の拠点のひとつが埴谷城だったと考えられています。

デザインの説明

 埴谷城の御城印には、千葉氏の家紋「月星」、千葉一族宍倉氏の家紋「九曜」と、埴谷氏の主家である上杉氏の家紋「竹に雀」をデザインしました。埴谷氏は「鍋かむり日親」で有名な、日蓮宗の高僧日親(1407年-1488年)を輩出した家です。日親は、埴谷城下の妙宣寺で修行したといいます。
 あわせて、埴谷城の築かれた台地の地形が分かる地図と、上総本一揆の拠点のひとつだった埴谷城に集まった埴谷重氏をはじめとする上杉禅秀派の姿をイメージしました。

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 松尾城(まつおじょう)

松尾城

 松尾城は明治2年に築かれた松尾藩の城です。明治元年に徳川家が駿河、遠江に移封になったことを受けて、遠江国掛川藩は上総国に国替えとなりました。当初は芝山観音経寺(山武郡芝山町)を仮藩庁としたため、柴山藩と称していましたが、その後、大堤村、猿尾村、八田村、田越村の村域に新たに城郭を築き、藩庁と城下町を建設することになりました。新たな城郭は、九十九里浜を望む木戸川東岸の台地に占地され、西洋の稜堡式多角形要塞の建築が始まりました。
 そして、掛川城本丸の南にあった「松尾池」、その南の「松尾曲輪」に因み、城名を「松尾城」としました。明治3年に藩庁(現松尾自動車学校)と藩主の居館である御住居地(現松尾中学校)、そして城下町が完成すると、柴山から移り、藩名を「松尾藩」に改称し、太田資美を藩主とする松尾藩5万石が成立しました。
 しかし、明治4年に廃藩置県を迎えたため、松尾藩はその他の諸藩とともに松尾県に組み込まれ、松尾城は未完のまま廃城となりました。
 松尾城は当初の計画では四稜郭の予定でしたが、地形等の制約により、最終的には三稜郭となりました。三稜郭は日本では松尾城が唯一となる貴重な遺跡です。

デザインの説明

 松尾城の御城印には、松尾藩主太田氏の家紋「丸に桔梗」をデザインしました。松尾藩が成立したときの当主資美から数えて15代前の当主が道灌(資長)にあたります。道灌は桔梗紋を好んだと伝わっています。あわせて、「違い鏑矢」の家紋もデザインしました。この家紋は桔梗紋よりも古い時期から太田家で使われていたともいわれています。
 そして、「臨時築法四稜城之図」をモチーフにしました。これは松尾城の計画絵図と考えられていましたが、調査の結果、16世紀初頭にオランダが植民地に築いた城塞とほぼ同じであることが判明しました。この絵図の入手経路などは不明なものの、松尾城築城には蘭学が大きな影響を及ぼしたことが分かる貴重な図面といえます。
 さらに御城印には掛川城の天守をデザインしました。掛川城から移封になりながらも、新たな城名と藩名に「松尾」の名を付けた藩主と藩士らの想いが偲ばれます。

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 匝瑳市

 飯高城(いいだかじょう)

飯高城

 飯高城は借当川北岸の標高約36mの丘陵に築かれました。現在の飯高寺(はんこうじ)周辺が城域とされていて、南方には飯高城の支城とされる飯高砦、新砦、さらに東方には天神砦が築かれています。これらのことから、広義の飯高城はかなり大規模であると考えられ、台地全体を城郭化することで連携して飯高城の防衛に当たっていたと推察されます。
 鎌倉時代中期から南北朝期において、当地は千葉一族である飯高氏の本貫地でした。そのため、飯高氏が築城したとの伝承もありますが詳細は不明です。
 戦国期には平山刑部少輔が飯高城を居城にしていたと伝わっています。平山氏は千葉氏、ないしは小田原北条氏に属していたとされるため、飯高城は小田原の役をもって廃城となったと考えられます。
 平山刑部少輔は日蓮宗に篤く帰依しており、天正19年(1591年)に城地のすべてを寄進し、日蓮宗の檀林として飯高寺が開かれたといわれています。(飯高寺は天正8年、平山刑部少輔を開基としています。)
 周辺には「城下(ねごや)」「鳴子山」「腰巻」など、城郭に関連する地名が残っています。さらに飯高寺の境内には、空堀、土塁、腰曲輪などの城郭遺構も残っていて、戦国期の飯高城の構造や規模がわかります。

デザインの説明

 飯高寺は戦国時代の終わりから明治7 年(1874 年)まで、日蓮宗の学問所である檀林として栄えました。日本三大檀林と呼ばれ、多くの学僧を輩出しました。この檀林が立正大学の前身です。飯高寺の境内全体が県指定史跡に指定されています。
 飯高寺の地にかつて存在した飯高城の御城印には、江戸時代に建てられた山門をモチーフにしました。あわせて、飯高氏の出自である千葉氏の家紋「月星」、千葉一族の家紋「九曜」をデザインしました。さらに、徳川家の家紋「三つ葉葵」をデザインしました。飯高寺は徳川家康から寺領30 石の寄進を受け、さらに家康の側室「お万の方」と繋がりが深い寺でした。お万の方は、正木氏の出で、日蓮宗に深く帰依しており、飯高寺に今に残る妙見菩薩もお万の方の奉納によるものです。そのことから、御城印には、妙見菩薩をイメージし描きました。さらに、お万の方は講堂を寄進するなど、飯高檀林の繁栄に尽力しました。

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 飯高砦(いいだかとりで)

飯高砦

 飯高砦は現在の妙福寺裏山に築かれた城郭で、山頂には飯高神社が鎮座しています。飯高砦の詳細は不明ですが、現在の飯高寺(はんこうじ)周辺が城域とされている飯高城の南方800mに位置するため、新砦、天神砦などと連携して飯高城防衛を担う城郭群の一つだったと考えられます。これらのことから、周辺の城郭群を含めた広義の飯高城はかなり大規模であると考えられ、台地全体が広範囲に渡り城郭化されていたと推察されます。
 麓の妙福寺は谷戸式居館の様相を呈することから、山麓に屋敷、山頂に防衛施設が築かれていた可能性も指摘されています。
 鎌倉時代中期から南北朝期において、当地は千葉一族である飯高氏の本貫地で、戦国期には平山刑部少輔が飯高城を居城にしていたと伝わっています。平山氏は千葉氏、ないしは小田原北条氏に属していたとされるため、飯高城は小田原の役をもって廃城となり、周辺の城郭群もその役目を終えたと考えられます。

デザインの説明

 飯高砦、天神砦、新砦などの城郭群などが広義の意味での飯高城を形成していたと思われることから、飯高城の築かれた台地や地形がわかる大正時代に描かれた飯高寺の絵図をモチーフにしました。飯高寺はかつての飯高城の台地に築かれています。
 あわせて、飯高氏の出自である千葉氏の家紋「月星」、千葉一族の家紋「九曜」をデザインしました。飯高砦の麓に建つ妙福寺は、延慶3 年(1310 年)に新藤太縦空(たじゅうくう)が妙見菩薩を祀ったとされていて、妙見信仰は千葉一族が深く帰依していることから、千葉一族との関係が垣間見えます。

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 天神砦(てんじんとりで)

天神砦

 天神砦は飯高城の東方300mほどの台地に築かれた城郭で、飯高城防衛を担う城郭群の一つだったと考えられます。天神砦は新砦、飯高砦などと連携していたと思われることから、周辺の城郭群を含めた広義の飯高城はかなり大規模であると考えられ、台地全体が広範囲に渡り城郭化されていたと推察されます。
 現在の天神砦には、土塁、堀切、竪堀遺構などが良く残り、戦国期の城郭の構造を小さい城郭ながらコンパクトに学び取れる貴重な城郭遺構といえます。
 鎌倉時代中期から南北朝期において、当地は千葉一族である飯高氏の本貫地で、戦国期には平山刑部少輔が飯高城を居城にしていたと伝わっています。平山氏は千葉氏、ないしは小田原北条氏に属していたとされるため、飯高城は小田原の役をもって廃城となり、周辺の城郭群もその役目を終えたと考えられます。

デザインの説明

 飯高城防衛のための城郭である天神砦の御城印には、飯高城の築かれた台地や地形がわかる地図をデザインしました。
 あわせて、飯高氏の出自である千葉氏の家紋「月星」、千葉一族の家紋「九曜」をデザインしました。さらに、天神砦の主郭には天神社が鎮座することから、梅の花をモチーフにしました。天神社の境内に立つ巨木もデザインしました。

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 松山城(まつやまじょう)

松山城の御城印イメージ

 松山城は松山神社が鎮座する台地上に築かれました。「松山」「中台」という大字にまたがり広範囲に渡って城郭や家臣屋敷などが置かれ、集落が形成されていたと思われます。かつては台地を取り囲むように施された土塁の断片が見て取れたといい、現在、松山神社周辺に曲輪や空堀、土塁らしきものが残ります。
 さらに、「御門」「大木戸」「馬場」「蔵屋敷」「殿ノ内」「花輪」「堀ノ下」「松葉(的場の転訛とみられる)」などの城郭に関連する地名が周辺に残っていることからも、台地上の広範囲に渡り築かれた城であることが推察できます。
 松山城は千葉一族の松山氏の居城と伝わります。松山氏は千葉常胤の弟椎名胤光の子の胤平を祖としており、椎名氏は千葉荘椎名を領していました。
 頼朝による木曽義仲討伐軍、平家討伐軍の中に椎名胤平(松山胤平)の名前が見え、胤平が頼朝に従って戦っていたことがわかります。それらの功により、椎名氏は南条荘(匝瑳市)を与えられ、胤平は松山に入ったと考えられています。
 その後も松山は中世を通じて松山氏の領地として続き、戦国期には松山の台地上に城が築かれました。詳細は不明ですが、松山氏は戦国時代末期には主家である千葉氏を通じて小田原北条氏に属していたと思われます。

デザインの説明

 松山城が築かれた台地には、八日市場、生尾、吉田、佐倉を結ぶ街道が通っています。江戸時代には「上宿」「中宿」「下宿」「横宿」の存在が確認でき、それらの宿の形成は中世に遡る可能性も指摘されています。このように松山の台地は、古くからの交通の要衝でした。
 街道を取り込むように築かれた松山城の御城印は、街道と集落をイメージしました。そして、この地域の中心であり、平安時代の創建と伝わる松山神社の光景をモチーフにしました。江戸時代において、松山神社は徳川幕府より扶持米が下される格式を有する神社であり、このような地位の神社は下総国では銚子市の猿田神社と松山神社のみです。
 あわせて御城印には、千葉一族の家紋「月星」と、千葉一族を出自とする松山氏の家紋「九曜」を配置しました。

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 八日市場城(ようかいちばじょう)

 八日市場城はJR八日市場駅の北側、現在は天神山公園となっている丘陵上に築かれました。台地周囲は断崖になっており、天然の要害となっています。南方約8kmの位置に九十九里浜が広がる水運の要衝で、当時は今よりも海岸線が迫っていたと推測でき、城山の周辺は低湿地帯だったと思われます。
 築城年代等の詳細は定かではありませんが、千葉氏家臣の押田(おしだ)氏の居城と考えられています。調査によると複数の堀が検出され、16世紀代の在地の土器等の遺物が出土していることから、八日市場城は押田氏の勢力拡大に伴い取り立てられた城と思われます。城を整備し、そして、押田氏ゆかりの寺院である福善寺が城下にあり、八日市場の宿が形成されていったと考えられます。
 調査により大規模な改修がされたこともわかっており、千葉氏が小田原北条氏に属す戦国時代末期の状況の中、千葉氏家臣である押田氏の城も軍事的緊張下の中で改修されたと推察できます。

デザインの説明

 八日市場城城主の押田氏はもとは源氏の出自と伝わり、鎌倉時代に三浦一族が滅びた宝治合戦(1247年)で三浦方について一族が討ち死にしたといいます。その子孫が千葉氏に暦われたことから千葉氏の重臣となり、押田氏を名乗ったとされます。
 その後、戦国時代になると、主君千葉輔胤の娘を妻にもらい、千葉一族の家紋である九曜を模した「丸九曜」を家紋としました。御城印には、その「丸九曜」ともう一つの押田氏の家紋である「五三の桐」を配置しました。
 城山には櫓台の遺構が残り、南方向には九十九里浜の海が見えます。水陸交通の要衝で、眼下には街道が通り、城下に形成された宿も見えたことでしょう。御城印には現地に立つ櫓のような展望台をモチーフにし、周辺の地図をデザインしました。

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 長南町

 長南城(ちょうなんじょう)

 長南城

 長南城は長南川に沿うように形成された市街地の東側丘陵に築かれました。長南城が築かれた「長南」は、長柄郡の南部分にあたる、もしくは長柄郡の南方の場所との語源を持ち、上総国の山間部にあたります。周辺の丘陵は痩せ尾根となっていて、長南城はそれらの丘陵部や谷を取り込むように城郭化され、約1km四方の範囲に城郭遺構が認められる千葉県を代表する大規模城郭といえます。妙見社~太鼓森の丘陵には造成された平坦面がみられ、また、長久寺周辺には堀切、切岸、腰曲輪などのまとまった城郭遺構が認められます。
 長南城の築城年代や築城主などの詳細は不明ですが、長南の地は上総平氏の流れである長南氏の支配を経て、上総武田氏の領するところとなりました。かつての長南氏の城館がいずれにあったかは不明ですが、武田氏がこの地に入ってきた後は長久寺から太鼓森に掛けての丘陵に長南城を築城もしくは整備したと思われます。
 武田氏が守護を務めていた甲斐国は上杉禅秀の乱(1416)以降、混乱状態にありましたが、永享の乱(1438)の頃に武田信重が守護として復権し、弟の信長は鎌倉公方足利成氏に仕え成氏の側近となりました。
 そして、享徳の乱 (1454)を契機に信長は成氏の命を受けて上総国に入部し、敵対する関東管頷上杉陣営との戦いの拠点とするため、長南城と真里谷城を築いたと伝わります。そして、上総武田氏は真里谷城(木更津市)を拠点とする真里谷武田氏と、長南城を拠点とする長南武田氏に分かれていきました。長南武田氏は真里谷武田氏に比べて良質な文献が少ないため、不明なことが多く、確実に実在が認められているのは最後の当主豊信だけです。豊信はその手腕を発揮し、16世紀の中頃には長南と池和田(市原)までを領国化し、衰退した真里谷武田氏にかわって戦国大名となりました。しかし、最後は小田原北条氏に属し、小田原落城の際は北条氏と運命を共にし豊信は自害したと伝わりますが、地方に逃れたとも伝わっています。その後徳川家康の関東入部に伴い、本多忠勝が天正18年(1590)6月~7月の間、長南城に滞在したとされています。

デザインの説明

 周辺の丘陵や宿などを取り込んで、長南武田氏の大城郭となった長南城の御城印には、その規模が分かる地図をモチ フにしました。長南城の最高所は標高約80mの「太鼓森」と呼ばれる丘陵で、太鼓森には平坦に造成された曲輪が点在し、現在は妙見社が建っています。太鼓森はその名の通り、有事の際には合図、伝令の太鼓が打ち嗚らされたと伝わることから御城印には太鼓を描き、当時をイメージしました。長南武田氏の最後の当主豊信は里見氏と北条氏の間を巧みに生きた房総を代表する戦国武将です。御城印には豊信の肖像画(長南町郷土資料館提供)と花押をデザインするとともに、武田氏の家紋「四つ菱」を配置しました。

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  • セブンイレブン上総長南:千葉県長生郡長南町長南1198-2
    TEL:0475-46-1330 年中無休24時間営業

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 東金市

 東金城(とうがねじょう)

 

 東金城は東金市街地を見下ろす標高約70mの丘陵地に築かれた東金酒井氏の本城です。城域は東西約700m、南北約500mに及び、半独立丘陵全体が城郭化され、南側は断崖となっており、天険の地形を活かした縄張りといえます。
 『鎌倉大草紙』によると、享徳の乱によって起きた千葉氏の内紛をうけて、美濃から下向した東常縁(とうつねより)が部下の浜春利を東金城に入れたとされますが、東金城の築城年代など詳細は不明です。関東に下向後は土気城(千葉市緑区)を本拠とし、東金城にも一族を入れ、土気酒井氏、東金酒井氏としてそれぞれ勢力を広げていきました。
 土気・東金両酒井氏は、里見氏と北条氏の争いが激化すると両勢力に挟まれました。そして、最終的には両氏とも北条氏に属し、天正18年(1590年)の小田原の役を迎えました。
 東金城は、『関八州諸城覚書(毛利文書)』などの文献から、小田原の役まで、東金酒井氏の本城として機能していたことが分かっています。発掘調査でも16世紀中葉から後半の遺物が出土しており、文献との年代の一致が確認されています。
 慶長18年(1613年)には、徳川家康の命により、鷹狩りを行うための東金御殿が築かれました。

デザインの説明

 東金城の御城印は東金酒井氏の家紋「右巴(右巻の巴)」をデザインしました。
合わせて、東金御殿の絵図(「東金古城之図」)をモチーフにしました。東金御殿は東金城の跡地に建てられた鷹狩りのための御殿であるため、東金上空を舞う鷹の姿も描きました。
 東金御殿の絵図(「東金古城之図」)は、天然の要害であった東金城の峻険さと規模が感じられる絵図になっています。さらには、城下を通る街道や宿も描かれていて、東金の地が要衝に当たることが見て取れます。
 徳川家康によって築かれた東金御殿でしたが、寛永7年(1630年)の徳川秀忠の御成りを最後に鷹狩りは行われませんでした。そして、寛文11年(1671年)になると、御殿は取り壊されました。

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 横芝光町

 坂田城(さかたじょう)

 坂田城は九十九里平野に突出した標高30mの台地上に築かれました。古代から水運の要であった栗山川の作り出した低湿地や点在する沼地に囲まれた要害の地です。
 坂田城は、はじめ千葉庶流の三谷氏によって築かれた後、16世紀半ばに小田原北条氏の息のかかった芝山大台城主井田氏に押領され、改修整備されました。これは南の里見氏、北の佐竹氏に対し、小田原北条氏の戦略的な要地を押さえる目的があったものと思われ、配下となった千葉氏を介して井田氏を配置したと推定されます。
 小田原北条氏支配となった坂田城は、天正8(1590)年、豊臣秀吉の小田原攻めにあって落城しました。 その後、井田氏は北条氏を離れて徳川家康の5男武田信吉に仕え、その移封に従って水戸へと移り、水戸徳川家の家臣となりました。

デザインの説明

 周囲を湿地や沼地に囲まれた堅固な要害とした坂田城の御城印には、今でも城の直下にある坂田池と城山をデザインしました。大規模な直線連郭式の城郭遺構が台地上に残るのが遠目に見ても想像できる特徴的な地形です。
 坂田城の大部分は、現在、畑等になっているものの、16世紀後半の遺構と思われるダイナミックな空堀、土塁などが良好に残っています。横矢掛を要所に構えたり、大手口は食い違い木戸口とする戦国期の城の姿を見ることができ、特に主郭へのアプローチは、物見台を直角に遠回りする造りとなっています。 坂田城は千葉県下でも代表的な城郭といえることから、御城印には良好に戦国期の遺構を残す坂田城の縄張図をモチーフにしました。

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    TEL 0479-74-8585

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