ホーム > 集めよう!千葉県の御城印(東葛飾エリア)
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更新日:2021年2月27日
幸谷城(こうやじょう) 幸谷城は「きつね山」と呼ばれる小丘に築かれ、城山の東側と南側には谷津がめぐっています。今も近くまで川が人り込んでいて、城が使われていた当時も手賀沼に流れる河川を利用して機能していたことが推測できます。 幸谷城一帯は鎌倉時代から南北朝時代には相馬御厨という伊勢神宮の荘園でした。千葉一族の相馬氏が領地としており、幸谷城は相馬氏の居館だとする伝承も残っています。さらに千葉氏系の氏族がいたと想像できる一族の信仰のシンボルである妙見さまが、幸谷城付近には今でも祀られているため、御城印には千葉一族の家紋「九曜」を配翼しました。さらに相馬氏ゆかりの地であることから相馬氏の家紋「繋ぎ馬」をデザインしました。
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松ヶ崎城(まつがさきじょう) 松ヶ崎城は手賀沼の最西端の台地上に築かれ、かつては城内から手賀沼(香取の海)を臨むことができたと思われます。松ヶ崎城が築かれた台地は、大堀川と地金堀が分岐する箇所に当たり、さらに手賀沼の北側には古東海道が通っていたとされ、まさに水陸の要衝地といえます。 香取の海(手賀沼)に繋がる要衝地であることが松ヶ崎城の大きなポイントであるため、御城印には手賀沼を臨む松ヶ崎城の城山と、その眼下を流れる河川を描きました。
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増尾城(ますおじょう) 増尾城は増尾集落から北東に突き出した半島状の台地の上に築かれました。南側崖下には手賀沼に流れ込む大津川の支流が流れ、城山のまわりは谷と険しい崖に囲まれ、天然の要害となっています。 遺構が良好に残り、南西隅に大きな櫓台が残る増尾城の縄張図をモチーフにしました。増尾城には虎口を見張る櫓があったと推測できますが、櫓台からは南方向に位置する幸谷城がよく見え、幸谷城にも増尾城を臨む位置に物見台が残っています。そこで、増尾城と幸谷城の御城印には同じ櫓をデザインするとともに、両城に築かれた小丘も御城印に描き、お互いに連携していた両城をイメージしました。
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花輪城(はなわじょう) 花輪城は江戸川に沿って南に突き出る台地先端に位置します。この台地の周辺は古くは低湿地帯だったと思われ、花輪城は水運の大動脈である旧利根川水系の太日川(現江戸川)と低湿地帯を臨む好立地に位置していたといえます。現在は主要地方道松戸野田線が城域を縦断していて、遺構の大部分は破壊されてしまっていますが、 花輪城址公園として先端部が整備されており、空堀、土橋、土塁などの遺構を今でも確認できます。 花輪城廃城後、江戸時代になると主郭には西福寺が建てられました。西福寺には琵琶首観音堂と呼ぱれるお堂があり、その観音堂の基壇跡が発掘調査により検出されています。 観音堂は江戸時代のものですが、そこに安置されていた観音菩薩立像は墨書きにより、天文8年(1539年)の造立であることが分かっています。
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前ヶ崎城(まえがさきじょう) 前ヶ崎城は富士川右岸に沿って北に突き出した標高20m前後の台地の上に築かれました。現在は突端の主郭が前ケ崎城址公園として整備されており、土塁や空堀、櫓台を確認することができます。 坂川上流域の奥まった場所に位置し、東側に富士川谷津、西側に名都借谷津、北側に八木谷津という3つの谷津が合流する地点の台地に築かれた前ヶ崎城の御城印は、その特徴のある地形をモチーフにしました。さらに前ヶ崎城の西側にある名都借城、東側にある幸田城、中金杉城もデザインの中に描きました。これらの支城で高城氏の本拠である根木内城や小金城の守りを固めていたと思われます。
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関宿城(せきやどじょう) 関宿は、関東平野の中心に位置し、多くの川が交差する要衝として古くから栄えてきました。関宿城は、長禄元年(1457)、古河公方、足利氏の有力家臣であった簗田氏により築かれたと伝えられています。以来、簗田氏の居城となった関宿城をめぐって、上杉氏、武田氏、北条氏など戦国の雄が争いを繰り広げてきました。 「千葉県立関宿城博物館と富士山」について千葉県立関宿城博物館は、千葉県の最北端で利根川と江戸川の分流点のスーパー堤防上にあり、天守閣部分はかつての関宿城を古い記録に基づいて再現したものです。
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小金城(こがねじょう)小金城は、南から北に伸びる上総台地が西の江戸川方面へ突出した地区に築かれました。湿地帯に囲まれた天然の要害である大地全体を城郭化し、周囲に根木内城、前ヶ崎城などの支城を配置したと思われます。 千葉市の本佐倉城(酒々井町)、原氏の臼井城(佐倉市)に次ぐ規模を誇る小金城は、根木内城が手狭になった高城氏によって築かれたとの伝承もあります。しかし実際には原氏が「金(こがね)領」支配の拠点として使ったものを高城氏から引き継いだと考えられます。 同じ台地上には城が築かれる前から「小金宿」が存在し、領の名前にも「金」が使われていることから宿の重要性が分かります。 小金城周辺は様々な勢力がぶつかる境界地帯であった時期もあり、領内はたびたび戦火にさらされたと考えられます。その中で高城氏は後北条氏に属しますが、豊臣秀吉による小田原攻めの際には小金城での戦闘行為の有無は不明ながらも、後北条氏の敗北により、城としての役目を終えたと思われます。 勢力の交差する金領は何度も戦火にさらされ、永禄年間になると里見氏、北条氏、さらに関東菅領職を得た長尾景虎(上杉謙信)の勢力が小金城付近でぶつかるようになります。まさに小金城は境目の城の役割を果たし、後北条勢力と反後北条勢力のせめぎあいの地となりました。このような情勢の中、北進する後北条勢力に対し、関宿城の簗田氏や守谷城と敵対、戦いが繰り広げられるようになるのです。 このような中で書かれた千葉胤冨書状「間宮家旧蔵文書(豊前氏古文書/松戸市立博物館蔵)」には、「敵松戸市川まであい散らし、去んぬる二六日引き退く、臼井筋の郷村に放火せしめ」と書かれ、小金領内の松戸に敵(安房の里見氏)が来襲して農作物を荒らし、原氏の本拠の村々にも焼き討ちした状況が伝えられています。御城印は、この書状内容をモチーフにするとともに、下総西部最大の城域面積を誇る小金城の築かれた台地をイメージした図柄を配買しました。
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根木内城(ねぎうちじょう)
根木内城は富士川の合流地点に突き出た台地の上に築かれました。築城年代等の詳細は定かではありませんが、高城氏の主筋である原氏が支配した「金(こがね)領」の拠点として機能していたと思われ、その後、高城氏がその支配領域を引き継いだものと考えられています。 根木内城の城下を江戸時代の水戸街道が通り、その沿道に小金宿がありました。根木内城はいわばプレ水戸街道の監視等の役目もあったと思われます。さらに行人台城や、小金城の台地との関連こそが根木内城の特徴と考えられるため、御城印にはそれらの位骰関係や地形が分かる地図をデザインしました。
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【販売場所】多古 道の駅あじさい館:多古町多古1069-1
【販売場所】
山城ガールむつみさんからのメッセージ
千葉県はたくさんの城跡があり、歴史の宝庫です。
千葉氏、里見氏に代表されるような、面白くドラマチックな歴史が満載です。
今ブームになっている「御城印」が地域の歴史や城を知り、大事に思うきっかけになれば嬉しいです。
これからもカッコよく素敵なデザインの御城印が続々と発行されますのでお楽しみに!