ホーム > 集めよう!千葉県の御城印(東葛飾エリア)

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更新日:2021年6月28日

東葛飾エリア

 柏市

 幸谷城(こうやじょう)

 幸谷城は「きつね山」と呼ばれる小丘に築かれ、城山の東側と南側には谷津がめぐっています。今も近くまで川が人り込んでいて、城が使われていた当時も手賀沼に流れる河川を利用して機能していたことが推測できます。
 千葉一族相馬氏の居館ともいわれていましたが、近年は調査による出土物などにより、15世紀後半に築かれ16世紀まで使われていた可能性が指摘されています。食い違い虎口や複数に折れる土塁や堀から、 増尾城と同じように小金城主高城氏に関連する城と想定できます。
 本土寺過去帳には、文明17年(1485年)の「コウ城」での戦闘行為による討ち死者の記録があり、「コウ城」が幸谷城を指している可能性があることからも、幸谷城の北方に位賀する増尾城との関連が推測でき、同時に機能していた両城の姿が浮かび上がります。

デザインの説明

 幸谷城一帯は鎌倉時代から南北朝時代には相馬御厨という伊勢神宮の荘園でした。千葉一族の相馬氏が領地としており、幸谷城は相馬氏の居館だとする伝承も残っています。さらに千葉氏系の氏族がいたと想像できる一族の信仰のシンボルである妙見さまが、幸谷城付近には今でも祀られているため、御城印には千葉一族の家紋「九曜」を配翼しました。さらに相馬氏ゆかりの地であることから相馬氏の家紋「繋ぎ馬」をデザインしました。
 幸谷城の北東には高まりがあり、物見台と伝わっています。物見台からは北方向に位賀する増尾城がよく見え、増尾城側にも幸谷城を臨む位買に櫓台が残っています。そのため、幸谷城と増尾城の御城印には同じ櫓をデザインするとともに、幸谷城と増尾城が築かれた小丘を描き、お互いに連携していた両城をイメージしました。また、調査で検出された土塁、堀、物見台が分かるよう実測図をモチーフにしました。

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 松ヶ崎城(まつがさきじょう)

  松ヶ崎城は手賀沼の最西端の台地上に築かれ、かつては城内から手賀沼(香取の海)を臨むことができたと思われます。松ヶ崎城が築かれた台地は、大堀川と地金堀が分岐する箇所に当たり、さらに手賀沼の北側には古東海道が通っていたとされ、まさに水陸の要衝地といえます。
 土塁や堀で囲まれた方形の城館跡が良好に残りますが、文献などの記録はなく詳細は不明です。しかし、調査により、曲輪、土塁、空堀、虎口、土橋、物見台などが検出されていて、土器や陶器などの遺物からも15世紀後半から16世紀前半にかけての築城とみられています。市内の増尾城、幸谷城同様に小金城主高城氏に関連する城郭の可能性が推察されていますが、城内からは建物跡が見つかっておらず、 臨時的な用途も指摘されています。
 柏市指定文化財(史跡)に平成16年7月に指定され、所有者の理解のもと、市民による植樹等の整備が進められています。

デザインの説明

  香取の海(手賀沼)に繋がる要衝地であることが松ヶ崎城の大きなポイントであるため、御城印には手賀沼を臨む松ヶ崎城の城山と、その眼下を流れる河川を描きました。
 松ヶ崎城は駅からわずか徒歩5分程度という好立地にもかかわらず、度重なる破壊の危機を乗り越えて、良好に整備され保存されています。その良好に残る士塁と空堀をデザインしました。それとあわせて方形単郭の特徴をデザインした縄張図をモチーフにしました。比較的小さな方形居館ですが、虎口が3か所も認められていたり、古墳を櫓台に転用していたりと、中世城郭の姿を今に伝えてくれる貴重な史跡です。

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 増尾城(ますおじょう)

  増尾城は増尾集落から北東に突き出した半島状の台地の上に築かれました。南側崖下には手賀沼に流れ込む大津川の支流が流れ、城山のまわりは谷と険しい崖に囲まれ、天然の要害となっています。
 築城時期や築城主は不明ですが、土塁や空堀からなる塁壁に複数の横矢が掛けられていることなどから戦国期の城とみられています。増尾城が小金領にあることからも、16世紀に築かれた小金城と関連する城と推測されており、東葛飾郡誌には小金城主高城氏の家臣平川若狭守が城主だったと書かれています。
 周辺には大津川に沿って、幸谷城、戸張城、佐津間城などの中世城館が築かれていて、これらの城とともに手賀沼へと続く水上交通の要衝だったことが想像できます。近世に遡ることができる街道も城 下で交差しており、陸上交通の要衝であったこともうかがえます。

デザインの説明

 遺構が良好に残り、南西隅に大きな櫓台が残る増尾城の縄張図をモチーフにしました。増尾城には虎口を見張る櫓があったと推測できますが、櫓台からは南方向に位置する幸谷城がよく見え、幸谷城にも増尾城を臨む位置に物見台が残っています。そこで、増尾城と幸谷城の御城印には同じ櫓をデザインするとともに、両城に築かれた小丘も御城印に描き、お互いに連携していた両城をイメージしました。
 増尾城かを流れる河川は郡の境にあたります。増尾城の南側一帯は鎌倉時代から南北朝時代には相馬御厨という伊勢神宮の荘園でした。相馬御厨は千葉一族の相馬氏が領地としており、増尾城付近には今でも千葉氏系の氏族がいたと想像できる一族の信仰のシンポルである妙見さまが祀られているため、御城印には一族の家紋「九曜」を配置しました。さらに相馬氏ゆかりの地であることから相馬氏の家紋「繋ぎ馬」をデザインしました。
 増尾城は現在、「増尾城址公園」として整備されています。

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 流山市

 花輪城(はなわじょう)

 花輪城は江戸川に沿って南に突き出る台地先端に位置します。この台地の周辺は古くは低湿地帯だったと思われ、花輪城は水運の大動脈である旧利根川水系の太日川(現江戸川)と低湿地帯を臨む好立地に位置していたといえます。現在は主要地方道松戸野田線が城域を縦断していて、遺構の大部分は破壊されてしまっていますが、 花輪城址公園として先端部が整備されており、空堀、土橋、土塁などの遺構を今でも確認できます。
 発掘調査によると、深さ3mの空堀と土橋が見つかっており、土橋によって城内の曲輪を繋いでいたと思われ、 少なくとも二つ以上の曲輪が連続する連郭式城郭であったことが分かっています。 さらに空堀は小規模ながら障子堀になっていたことが確認されており、 城郭として利用されていた頃の姿が発掘調査により浮かんできます。
 花輪城は築城年代などは不明ですが、戦国期には根木内城や小金城を本拠とする高城氏の支城として使われたと思われ、 高城氏に関係する田島氏や平本氏の名が伝わりますが詳細は定かではありません。高城氏が属した北条氏が滅びると花輪城は役目を終えたと考えられます。

デザインの説明

 花輪城廃城後、江戸時代になると主郭には西福寺が建てられました。西福寺には琵琶首観音堂と呼ぱれるお堂があり、その観音堂の基壇跡が発掘調査により検出されています。 観音堂は江戸時代のものですが、そこに安置されていた観音菩薩立像は墨書きにより、天文8年(1539年)の造立であることが分かっています。
 さらに発掘調査の際に、空堀か ら19基の板碑が出土しました。 これらの板碑と仏像の由来は不明ですが、花輪城の性質や役割を考える上での重要な遺物と思われるため、御城印には観音堂の基壇が描かれている花輪城構造図と出土した板碑をデザインしました。

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  •  流鉄・流山駅:流山市流山1-264

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 前ヶ崎城(まえがさきじょう)

 前ヶ崎城は富士川右岸に沿って北に突き出した標高20m前後の台地の上に築かれました。現在は突端の主郭が前ケ崎城址公園として整備されており、土塁や空堀、櫓台を確認することができます。
築城の経緯などは不明ですが、本土寺過去帳には「前崎落城打死」の記事があり、前ヶ崎城にて戦闘が行われたことが分かります。ここで討ち死にを遂げたのは、太田六郎と戸張彦次郎と記され、この二人は扇谷上杉氏の家宰太田道灌の将と思われます。
 文明10年(1478年)に道灌が国府台城に陣を構え、長尾景春に与した千菓孝胤(のりたね)の軍と境根原合戦で戦いますが、その前哨戦として前述の本土寺過去帳に記されたように前ヶ崎城で戦闘があったと推測できます。
 その後も城の経緯詳細等は不明ですが、「刑部郭」という地名が残ることから、高城氏の属将、田島刑部少輔が前ヶ崎城の城主でだったのではないかなどいくつかの説が伝っています。千葉氏の一族である高城氏は下総国で勢力を拡大、千葉氏の内訌を経てその後は北条氏に属し、根木内城、小金城と本拠地を拡大していきました。 前ヶ崎城はそれらの支城として機能したと思われます。

デザインの説明

 坂川上流域の奥まった場所に位置し、東側に富士川谷津、西側に名都借谷津、北側に八木谷津という3つの谷津が合流する地点の台地に築かれた前ヶ崎城の御城印は、その特徴のある地形をモチーフにしました。さらに前ヶ崎城の西側にある名都借城、東側にある幸田城、中金杉城もデザインの中に描きました。これらの支城で高城氏の本拠である根木内城や小金城の守りを固めていたと思われます。
 本土寺過去帳に「前崎落城打死」と書かれた戦いは、太田道灌と千葉孝胤が戦った境根原合戦の前、哨戦と推測されるため、合戦となった千葉氏の家紋「九躍」と「月星」、太田氏の家紋である「丸に細桔梗」を配置しました。

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  •  流鉄・平和台駅:流山市流山4-483

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 野田市

 関宿城(せきやどじょう)

 関宿は、関東平野の中心に位置し、多くの川が交差する要衝として古くから栄えてきました。関宿城は、長禄元年(1457)、古河公方、足利氏の有力家臣であった簗田氏により築かれたと伝えられています。以来、簗田氏の居城となった関宿城をめぐって、上杉氏、武田氏、北条氏など戦国の雄が争いを繰り広げてきました。
 北条氏康は「関宿を手に入れるのは、一国を取ることと同じ」とも記しています。
その後、江戸時代になると、徳川家康の弟である松平康元が初代関宿藩主となりました。関宿は江戸を守る重要な場所として関所が置かれ、歴代の城主のなかには幕府の重職を担った者も多かったことから「出世城」とも呼ばれました。
 実際の天守閣は関宿城博物館から江戸川堤防沿いに500mほど下流に向かった位置にありましたが、明治の初めに取り壊され、現在は本丸の一部に建つ「関宿城趾」の石碑に、当時を偲ぶことができます。

デザインの説明

 「千葉県立関宿城博物館と富士山」について千葉県立関宿城博物館は、千葉県の最北端で利根川と江戸川の分流点のスーパー堤防上にあり、天守閣部分はかつての関宿城を古い記録に基づいて再現したものです。
館内の展示では、利根川や江戸川の治水や舟運の歴史と、関宿城や関宿藩について、楽しく学ぶことができ、館外では季節の植物観察などもお薦めです。
 また、冬の晴れた日には関東一円の山々を見渡すことができ、利根川を挟んだ対岸の茨城県境町から天守閣越しに見た富士山の眺めは、「関東の富士見百景」にも選ばれています。

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  •  関宿城博物館友の会売店:野田市関宿三軒家143-4 

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 松戸市

 小金城(こがねじょう)

 小金城は、南から北に伸びる上総台地が西の江戸川方面へ突出した地区に築かれました。湿地帯に囲まれた天然の要害である大地全体を城郭化し、周囲に根木内城、前ヶ崎城などの支城を配置したと思われます。

 千葉市の本佐倉城(酒々井町)、原氏の臼井城(佐倉市)に次ぐ規模を誇る小金城は、根木内城が手狭になった高城氏によって築かれたとの伝承もあります。しかし実際には原氏が「金(こがね)領」支配の拠点として使ったものを高城氏から引き継いだと考えられます。

 同じ台地上には城が築かれる前から「小金宿」が存在し、領の名前にも「金」が使われていることから宿の重要性が分かります。

 小金城周辺は様々な勢力がぶつかる境界地帯であった時期もあり、領内はたびたび戦火にさらされたと考えられます。その中で高城氏は後北条氏に属しますが、豊臣秀吉による小田原攻めの際には小金城での戦闘行為の有無は不明ながらも、後北条氏の敗北により、城としての役目を終えたと思われます。

デザインの説明

 勢力の交差する金領は何度も戦火にさらされ、永禄年間になると里見氏、北条氏、さらに関東菅領職を得た長尾景虎(上杉謙信)の勢力が小金城付近でぶつかるようになります。まさに小金城は境目の城の役割を果たし、後北条勢力と反後北条勢力のせめぎあいの地となりました。このような情勢の中、北進する後北条勢力に対し、関宿城の簗田氏や守谷城と敵対、戦いが繰り広げられるようになるのです。

 このような中で書かれた千葉胤冨書状「間宮家旧蔵文書(豊前氏古文書/松戸市立博物館蔵)」には、「敵松戸市川まであい散らし、去んぬる二六日引き退く、臼井筋の郷村に放火せしめ」と書かれ、小金領内の松戸に敵(安房の里見氏)が来襲して農作物を荒らし、原氏の本拠の村々にも焼き討ちした状況が伝えられています。御城印は、この書状内容をモチーフにするとともに、下総西部最大の城域面積を誇る小金城の築かれた台地をイメージした図柄を配買しました。

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 根木内城(ねぎうちじょう)

 

 根木内城は富士川の合流地点に突き出た台地の上に築かれました。築城年代等の詳細は定かではありませんが、高城氏の主筋である原氏が支配した「金(こがね)領」の拠点として機能していたと思われ、その後、高城氏がその支配領域を引き継いだものと考えられています。
 城の周囲には湿地が広がり、自然の要害であったことが推測できますが、現在は国道6号線が城内を貫き、さらに宅地開発により西側半分は破壊されてしまいました。しかし、根木内歴史公園内には、空堀や土塁が良好に残り、当時の城の姿を偲ぶことができます。
 根木内城の周辺には、谷津を挟んで築かれた行人台城や下流の前ヶ崎城、名都借城などの城が築かれ、この地域が戦乱の渦中にあったことを窺い知ることができます。
 古河公方と小弓公方が対立するようになると、それぞれの勢力がこれらの城をめぐり、合戦を繰り広げました。高城氏は、そのような状況下で根木内城から小金城に本拠を移した可能性があります。根木内城はその後も高城氏の支城として使われたと思われます。

デザインの説明

 根木内城の城下を江戸時代の水戸街道が通り、その沿道に小金宿がありました。根木内城はいわばプレ水戸街道の監視等の役目もあったと思われます。さらに行人台城や、小金城の台地との関連こそが根木内城の特徴と考えられるため、御城印にはそれらの位骰関係や地形が分かる地図をデザインしました。
 根木内城からは近年の発掘調査により、旧水戸街道南側から堅固な障子堀などの遺構や遺物が発見され、城域が考えられていたよりも南に広がっていることが分かりました。その発掘調査の結果を活かし、御城印には発掘された障子堀をデザインしました。

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旅して集めよう!千葉県の御城印!

ベイエリア

東葛飾エリア

北総エリア

九十九里エリア

南房総エリア

 

かずさ・臨海エリア

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ここに集めよう!千葉県の御城印帳

下総多古 御城印帳

  •  【販売場所】多古 道の駅あじさい館:多古町多古1069-1

館山城 御城印帳

  • 【販売場所】館山城館山市立博物館受付:館山市館山351-2 城山公園内

大多喜城 御城印帳

  • 【販売場所】大多喜町観光本陣:夷隅郡大多喜町大多喜270-1(いすみ鉄道大多喜駅前)
  • 【販売場所】大多喜城分館(千葉県立中央博物館):夷隅郡大多喜町大多喜481

猪鼻城 御城印帳

  •  【販売場所】いのはな亭:千葉市中央区亥鼻1-6(亥鼻公園内)

南房総市/南総里見八犬伝御城印帳

【販売場所】

 

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▽いくつかの千葉県「御城印」デザインを手掛ける「山城ガールむつみ」さん▽

  • 山城ガールむつみさんからのメッセージ

千葉県はたくさんの城跡があり、歴史の宝庫です。
千葉氏、里見氏に代表されるような、面白くドラマチックな歴史が満載です。
今ブームになっている「御城印」が地域の歴史や城を知り、大事に思うきっかけになれば嬉しいです。
これからもカッコよく素敵なデザインの御城印が続々と発行されますのでお楽しみに!