新五千円札の顔 津田梅子!実は千葉県と深い縁のある彼女の生涯とは

2024年7月から発行される新しい日本銀行券。五千円札の顔に選ばれたのは、千葉県とも縁があり、日本の女子高等教育の近代化に生涯を捧げた津田梅子です。彼女はどのような人生を歩み、どのような思いで津田塾大学を創設したのか。また、彼女の進取の気風を育んだ千葉県佐倉市の文化的風土についてもご紹介します。

新五千円札の顔 津田梅子!実は千葉県と深い縁のある彼女の生涯とは
新五千円札の顔 津田梅子!実は千葉県と深い縁のある彼女の生涯とは

「西の長崎、東の佐倉」と呼ばれ、学問の先進地として発展していた佐倉

  • 佐倉城跡にある堀田正睦像

わが国初の女子留学生として渡米し、のちに日本の女子高等教育の発展に寄与する津田塾大学を創設した津田梅子。彼女がアメリカに向けて出航したのはわずか6歳という年齢でした。そのため留学には彼女の父である津田仙の意向が大きく働いていたといわれています。


梅子の父・仙は、江戸時代には佐倉藩の統治下にあった千葉県佐倉市に生まれ、藩の藩校で学んでいます。当時の佐倉藩藩主・堀田正睦は、「蘭癖(らんぺき)」(=オランダかぶれ)と呼ばれた開明派の大名で、藩を発展させるために西洋の技術や学問を積極的に取り入れ、身分を問わず才能や意欲のある者に学びの機会を与えていました。佐倉藩における洋学の隆盛ぶりは「西の長崎、東の佐倉」といわれるほどで、佐倉はこの時代、学問の先進地として発展していたのです。幕末期の1858(安政5)年にハリスとの間に結ばれた日米修好通商条約締結に尽力したのも、のちに老中となって幕閣の中心に登った堀田正睦でした。


梅子の父・仙もそんな佐倉藩の文化的風土に影響を受けて、導入されたばかりの西洋砲術に強い関心を持つようになり、のちに英語の習得を志すようになったといわれています。


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津田塾だけじゃない!? 佐倉にルーツを持つ「順天堂」

堀田正睦の強い洋学志向によって、佐倉藩では蘭医学が盛んでした。1843(天保14)年に長崎で蘭医学を修め、江戸で開業していた佐藤泰然が佐倉に招かれると、泰然は蘭医学塾兼診療所の「順天堂」を開き、そこで蘭医学を教えるだけでなく、最先端の診療を行うようになります。順天堂は全国から生徒を募集したので、医学に情熱を持った多くの人材が集まり、これが現在の順天堂大学の前身になりました。

津田塾だけじゃない!? 佐倉にルーツを持つ「順天堂」

この親にして、この娘あり!? 思い立ったら行動する父・津田仙

  • 梅子を抱く父の津田仙(出典:津田塾大学津田梅子資料室)

梅子の父・仙は、1853(嘉永6)年の黒船来航時に江戸湾警固の砲兵隊として配属され、黒船を間近で見たことがきっかけとなり、オランダ語や英語の勉強を始めました。25歳のときに津田家へ養子に入り結婚。外国語の勉強を始めてから5年で、幕府の外国奉行の通訳として採用されます。


1867(慶応3)年には幕府がアメリカに発注し、未納となっていた軍艦の納品を求める使節団の一行に選ばれ渡米。一行の中にはのちに慶應義塾大学を創設した福沢諭吉もいました。約5ヵ月の滞在で仙はアメリカの豊かさを実感し、これからはアメリカに学ばなければいけないと考え、帰国時には武士の命ともいえるまげを切ってしまっていたそうです。


帰国後の仙は、通訳兼洋学教授として新潟へと転勤に。しかし世の情勢は目まぐるしく変わり、仙が江戸に戻ってきた頃には幕府は倒れ、明治の世になっていました。職を失った仙ですが、英語力を買われ、新しくできた外国人向けのホテルで働き始めます。そこで西洋野菜に出会った仙は、自ら野菜や果物の栽培を始めたのでした。トマト、アスパラガス、オランダのイチゴ、アメリカのリンゴなどを日本に初めて導入したのは、実は梅子の父・津田仙だったといわれています。

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佐倉市では梅子の父にちなんだ「津田仙メニュー」給食を実施!

幕府使節団の通訳としてアメリカに渡った津田仙は、帰国後、難しいとされてきたアスパラガスやブロッコリー、イチゴなどの栽培に成功。のちに農学校を設立し、西洋野菜の国内普及に尽力しました。佐倉市内の小中学校では、仙の命日である4月24日前後に各校独自の「津田仙メニュー」給食を実施し、仙の功績について知り、郷土に誇りを持ってもらう取り組みを行っています。


佐倉市では梅子の父にちなんだ「津田仙メニュー」給食を実施!

父が拓いた留学への道

  • 岩倉使節団に女子留学生を同行させた黒田清隆(出典:国立国会図書館ホームページ)

農業に取り組み始めた梅子の父・仙は、1年ほどでホテルを辞め、北海道開拓使の嘱託となって、農事研究に勤しんでいました。北海道開拓使とは、北海道に眠る資源の開発を進めるために作られた政府機関です。そのトップには薩摩藩出身で欧米視察を終えた黒田清隆が就いていましたが、黒田は有能な人材を育てるには教養ある母親が必要で、そのためには女子教育を振興する必要があると考え、女子留学生の派遣を検討していました。そこへ折しも幕末期に結ばれた不平等条約の改正などについての話し合いをするため岩倉使節団がアメリカ、ヨーロッパを歴訪することが決まり、その一行に女子留学生を同行させることになったのです。


これを聞きつけた仙は、まず梅子の姉の琴子にアメリカへ行く気はないかと尋ねたようですが断られたため、年端もいかぬ6歳の次女・梅子が行くことになりました。仙は自分の経験から、語学の勉強はできるだけ早く始めた方がいいという持論があり、まだ幼かった梅子が立派に育つよう心を鬼にして留学させる決意をしたようです。

6歳の梅子、アメリカへ旅立つ

  • 皇后に謁見するため参内した日本初の女子留学生たち。右から2人目が梅子(出典:津田塾大学津田梅子資料室)

1871(明治4)年、6歳の梅子は開拓使派遣留学生の一員として、岩倉使節団とともに横浜の港を出港しました。父からはポケットサイズの英和小辞典を持たされ、「イエス」「ノー」「サンキュー」程度の英語を教えられただけで船に乗ったそうです。


梅子とともに女子留学生に選ばれたのは15歳の吉益亮子、上田悌子、12歳の山川捨松、そして9歳の永井繁子の4人。6歳の梅子は最年少でした。皆、親からお国のためにアメリカへ行けと言われて留学することになったということでしたが、あまりに幼かった梅子はことの次第すらよく理解していなかったと思われます。しかし、その後の永いアメリカ生活を経て、梅子と繁子、捨松は自分たちのことを「ザ・トリオ」と呼び、終生の友人になりました。年長の2人は異国に馴染むことができず、渡米後10ヵ月足らずで帰国したそうです。


梅子たち女子留学生は蒸気船「アメリカ号」で約1ヵ月の航海を経てサンフランシスコに到着。そこからさらに約1ヵ月、大陸横断鉄道に乗ってアメリカ東部へと向かいました。道中、和服姿の少女たちは周囲のアメリカ人から好奇の目で見られるのを嫌がり、シカゴに着いた時には洋服を買ってもらったというエピソードもあります。そして、アメリカの首都ワシントンに着くと、5人は日本弁務使館に勤めていた森有礼に迎えられましたが、森もまさか梅子のような幼い少女が来るとは思っていなかったそうです。

アメリカでは我が子のように育てられる

  • キリスト教の洗礼を受けた津田梅子(出典:津田塾大学津田梅子資料室)

アメリカで梅子はワシントン郊外のジョージタウンで日本弁務使館の書記として働いていたチャールズ・ランマンの家庭に預けられました。子どものいなかったランマン夫妻は、梅子をたいそう可愛がり、我が子のように育てたといいます。また、ランマン家では週末に教会へと出かける習慣がありましたが、そんな環境もあってか、梅子は本当のアメリカを知るためにはキリスト教徒になるのが一番ではないかと自ら考え、洗礼を受けたということです。アメリカに来て、約1年半後のことでした。


梅子は物覚えが早く、学校の成績も優秀でした。ランマン家は比較的裕福な家庭で、書庫には3千冊以上の蔵書があったため、梅子はそこにあった英語の本を読んだり、日記や作文を英語で書くようになり、アメリカ人としての素養を身につけていったのです。そして初等教育を終え、さらに上級の学校にも進んだ梅子は、ラテン語、数学、物理学、天文学、フランス語など、多くの学科で優秀な成績を修め、1人のアメリカ人としてどこへ出ても恥ずかしくない見識と品格を備えていったのです。

カルチャーショックに戸惑う梅子

  • 帰朝後、18歳頃の津田梅子(出典:津田塾大学津田梅子資料室)

1882(明治15)年、梅子は捨松とともに帰国の途につきました。日本を出てから約11年の時が経っており、出国時わずか6歳の子どもだった梅子は、すでに日本語をほとんど覚えておらず、港まで迎えに来た父の仙は梅子に英語で話しかけたそうです。


日本での毎日について、梅子はランマン夫妻に手紙で報告することを忘れませんでした。4週間が経っても日本語がよくわからないこと。日本人は物静かで良い人たちなのだが、女性の前でも平気で裸のような格好をする男性がいることなど、日本での暮らしは梅子にとって大変なカルチャーショックだったようです。


そんな梅子にとって唯一の安らぎは、アメリカで同じ時を過ごした捨松や繁子とたまに会い、英語で語り合うことだけ。アメリカで学び、英語が堪能な彼女たちでしたが、梅子と捨松にはその能力を活かせる職業がないという共通の悩みもありました。また、国費で留学していたため、国にその恩返しをしなければという重責にも苛まれていたようです。


そんな頃、梅子の良き理解者だった捨松が薩摩藩出身の軍人、大山巌と結婚をすることになりました。一方の梅子は「愛のない結婚をすることはできない」と手紙でランマン夫人に自らの思いをぶつけ、アメリカで身につけた教育が日本では何の役にも立たないと苦しい胸の内を明かしています。

政府最高実力者・伊藤博文の家に住み込みで働く

  • 18歳頃。鹿鳴館時代の津田梅子(出典:津田塾大学津田梅子資料室)

梅子が帰国した頃、明治政府は東京内幸町に洋風建築の社交クラブ「鹿鳴館」を建設し、海外の要人をもてなして日本の近代化をアピールしようとしていました。帰国子女として世間の注目を集めていた梅子は、鹿鳴館開館を前に外務卿公邸で開かれた夜会に招待され、そこで政府の最高実力者・伊藤博文と再会します。実は伊藤とは、梅子が6歳の時にアメリカへ向かう船の中で出会っていたのでした。


それからしばらくして、伊藤から明治天皇の皇后に仕えた下田歌子が作った上流階級の子女のための学校「桃夭女塾(とうようじょじゅく)」で英語を教えて欲しいと手紙が届きます。やっと自分が学んできたことを活かせると胸をときめかせた梅子は、伊藤家に住み込みで伊藤の妻や娘に英語を教えはじめ、その後桃夭女塾で英語を教えると同時に、下田歌子からは日本語を習いました。


伊藤は気さくな人物で、立場の違いを超えて各国の法律や西洋の文化についての意見を梅子に求めました。梅子は伊藤に、「日本の女性の地位は低すぎる。私はせっかくアメリカで勉強をしてきたのに、それを発表する場がない」ということも訴えたようです。

女子教育への夢

  • 左から津田梅子、アリス・ベーコン、瓜生繁子、大山捨松(出典:津田塾大学津田梅子資料室)

伊藤の推薦もあってか、1885(明治18)年に皇族や華族の子女ための官立学校「華族女学校(のちの女子学習院)」が設立されると、梅子は教師として迎えられます。やっとアメリカで学んできたことが活かせると希望に燃えていた梅子ですが、華族女学校の生徒はのんびりとしたお嬢さんばかりで、梅子が望む教育は実現できませんでした。梅子が望んだのは、男性に従属するのではなく、自らの意志で考え、行動し、自立して生きる女性になること。梅子は洋服を着てワルツを踊るだけでは、西洋に追いつくことなんてできないと考えていましたが、当時の日本では、そのように考える人はまだまだ少なかったのです。


その頃、梅子の推薦により捨松のアメリカでのホストファミリーだったベーコン家から、娘のアリス・ベーコンが華族女学校の英語教師として来日しました。梅子はアリスと一緒に暮らすようになりますが、現状への閉塞感を感じていた梅子は、アメリカで再度学び直したいという希望をアリスに打ち明け、背中を押してもらいます。2度目の留学を決意した梅子は、1889(明治22)年に2年間の期限付きで華族女学校の教師という身分のまま、アメリカへ留学することが許可されたのでした。

再びアメリカへ。梅子の研究テーマは「カエルの卵」

  • 大学時代の津田梅子(出典:津田塾大学津田梅子資料室)

2度目の留学で梅子が通ったブリンマー大学は、アメリカの女子高等教育の発展に努めたマーサ・ケアリー・トーマス学部長を筆頭に、最高の教師陣を揃えた女子教育のパイオニア的存在でした。またここで梅子は、のちに女子英学塾を開設した際に片腕となるアナ・ハーツホンとも出会っています。


梅子の学業に対する熱心さは全学生の中でも抜きん出ていて、特に農学者となった父の影響か、梅子も生物学に興味を持ち、「カエルの卵の発生」について研究していました。夏休みにはアメリカに帰ってきたアリスの研究の手伝いもしています。テーマは「日本の女性について」。アリスは華族女学校時代に日本の上流階級の女性が、家事も子育てもしなくていい環境にありながら、何もしないで夫に仕えるばかりなのはなぜか常々疑問に思っていたそうです。「日本の女性には仕事がないから」と答える梅子に、それなら「自分自身で道を拓かなくてはいけない」と言うアリス。そんなやり取りを通じて、梅子は女性のためになる学校を作りたい。日本の将来を担う女性たちを育てていきたいと自らの夢を膨らませていったのです。


梅子は大学を卒業するにあたり、科学者として大学に残って研究を進めることを提案されましたが、帰国して「日本の女性のための良い学校を作る使命がある」と言って断ります。科学者としての梅子の才能を見抜いていたトーマス教授は大変残念がっていたそうです。

理想の女学校開設に向けて

  • ナイチンゲールから贈られた花束の押し花(出典:津田塾大学津田梅子資料室)

1892(明治25)年8月に2度目の留学から帰国した梅子は、華族女学校に復職し、夢に向かって新たなスタートを切ります。1898(明治31)年にアメリカのデンバーで開かれた万国婦人連合大会に日本代表として出席すると、「女性は、教育によって人形のような存在から抜け出し、男性の本当の協力者、対等なパートナーとなることができる」と、3千人もの聴衆の前で教育による女性の地位向上を訴えました。


大会後、梅子はアメリカでヘレン・ケラーと、その後の渡英ではフローレンス・ナイチンゲールと会って、教育の重要性や理想に向かって進み続けることの大切さを学びます。


帰国した梅子は1900(明治33)年7月、華族女学校と女子高等師範学校という安定した勤め先を辞め、女子英学塾を作ることを決意。大山侯爵夫人となっていた捨松は、人脈を活かして寄付を呼びかけ、アリスはアメリカから養女の渡辺光子を連れて来日し、教師を買って出てくれました。ブリンマー大学のトーマス教授らも梅子の学校を成功させようと、寄付を集めて協力を申し出てくれたのでした。

念願の女子英学塾を開校

  • 創設した頃の女子英学塾一番町校舎(出典:津田塾大学津田梅子資料室)

1900(明治33)年9月、国境を超えた多くの人たちの協力を得て、当時の東京麹町区一番町に「女子英学塾」が開校しました。民家を借りた質素な校舎で、教師は数名、生徒10名でのスタートでした。梅子は英語だけでなく幅広い知識を持つ女性を育て、この塾で学べば女性であっても男性と同じ実力を養うことができるという教育を目指しました。


英語の発音は正しくできるまで何度も繰り返し教え、英作文も論旨が明確になっていないと書き直しを命じるなど、梅子はかなりの熱血教師だったようです。生徒はしっかり予習をしておかないと授業について行くことができませんでした。なぜなら授業ではその内容についての討論が英語で行われるからです。厳しい指導の一方で、住み込みの生徒たちは毎週土曜日には皆で夕食を作って食べ、食後にオルガンの伴奏に合わせて歌ったり、フォークダンスを踊るなどして、アットホームな雰囲気の学校づくりが行われていたといいます。

受け継がれる梅子の目指した女子教育

  • 竣工した頃の小平校舎(出典:津田塾大学津田梅子資料室)

女子英学塾が開校して2年。それまで梅子のサポートしてくれたアリス・ベーコンが帰国し、入れ替わるようにしてブリンマー大学で梅子の親友となったアナ・ハーツホンが来日。アナは梅子のよき協力者として、その後の塾を支え続けていくことになります。


1903(明治36)年には8名の第1回卒業生を送り出しましたが、そのうちの5名が英語教員試験に合格。開校5年目には、女子英学塾の卒業生は試験を受けなくても教員の資格が認められるほどの高い評価を受けるようになっていました。


塾が順調になりだした頃から、梅子は今までの疲れがどっと出たように病気がちになります。学生が増えたため、東京の西部に広い土地を買い、新しい校舎を建設する計画が進められていましたが、その完成を見ることなく梅子は1929(昭和4)年8月16日、静かにこの世を去りました。「男性と協同して対等に力を発揮できる女性を育成する」ことを目指して、全力で駆け抜けた64年の生涯でした。


1932(昭和7)年、現在の東京都小平市に女子英学塾の新校舎が完成。1933(昭和8)年からは「津田英学塾(のちの津田塾大学)」と名前も改まって、新しい時代にかなう優秀な女性を育てたいという梅子の理想は、その後もずっと受け継がれていくことになったのです。


江戸時代には洋学が盛んだった佐倉という土地で育った開明的な父・津田仙が蒔いた種を、たった6歳でアメリカに渡って育み、帰国後も様々な困難や葛藤と向き合いながら見事に開花させた津田梅子。千葉県佐倉市では、新五千円札の発行を機に津田仙・梅子父子のファミリーヒストリーを体験できるイベントなどが開催される予定ですので、皆様も是非一度、足を運んでみてはいかがでしょうか。

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